ラサ工業

  • 2013/08/27(火) 01:50:31

さて見立の英国館に転がっていた「ラサ工業50年史」のことである。
ラサ工業は見立鉱山を経営していた会社である。現在でも排水管理のためか現地に事務所がある。
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P8211657 posted by (C)オトジマ

「ラサ」という日本語らしからぬ社名であるが、大正時代以来の伝統ある社名である。ラサとは沖縄東方海上に浮かぶ絶海の孤島の名称で沖大東島ともいう。洋上の孤島は海鳥の繁殖地になることがままあり、ここも鳥の糞に由来する燐鉱を産し、1913年に「ラサ島燐鉱株式会社」が設立され、肥料の原料として採掘した。今年が100周年ということ。
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P8211673e posted by (C)オトジマ

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P8211670e posted by (C)オトジマ

ラサ島に舞う海鳥
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P8211671e posted by (C)オトジマ
ラサ島はいまも全島がラサ工業の所有となっている。

英国館に置いてあるのは「ラサ工業50年史」だからなんと50年前に出版されたものである。ということは100年の歴史の前半を描いているだけである。この会社の全盛時代は戦前のことで戦後はジリ貧だから後半の50年史にはたいしたトピックはないだろう。

同じく肥料会社から発足し同じくらいの歴史を持つ日本窒素-旭化成の現在の売上げ1兆5000億に比べ、ラサ工業はわずかに300億。鉱山に依拠した経営が災いしたようだ。ラサ工業も設立間もない大正九年には大戦景気もあって10割配当をし、設立5周年パーティには時の首相原敬も出席したという黄金時代があった。

パラパラと拾い読みしてみたら面白い記事があったので抜き出してみる。

ラサ工業は原料たるリン鉱石をラサ島とフィリピン東方にあるアンガウル島に頼っていたのであるが、将来の資源枯渇を見越し、新たに産地を探すことになった。南洋の孤島を探すうちに、南シナ海の新南群島に至った。南沙諸島(スプラトリー諸島)のことである。1919年、その中のウェストヨーク島に目をつけ無主地であることを確認し「大日本帝国」の標柱を立てた。その後、別の島イツアバー島にて1920年にリン鉱石の採鉱を始めた。

戦前、ラサ工業が東南アジアの持っていた鉱山
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ラサ1 posted by (C)オトジマ


イツアバー島(長島)全景
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P8211682e posted by (C)オトジマ

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P8211686e posted by (C)オトジマ

1929年の世界恐慌で事業縮小を余儀なくされたラサ工業はこの新南事業所を休止し、島から撤退する。ところがその4年後の1933年、フランスがこの諸島を先占宣言するのである。当時ベトナムはフランス領土でこの諸島もその近隣ではある。ラサ工業は奪還すべく政府に働きかける。毎日新聞は現地に特派員を派遣し、下の写真の標柱を発見し、日本の先占の証明だとした。日本政府もフランスに抗議して交渉に入る。政府は1939年官報にて「南シナ海上の新南群島を台湾総督府の管轄下に属せしむ」と告示した。

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P8211685e posted by (C)オトジマ



その結果、ラサ工業は新南諸島の権益を確保できたわけである。ただし、フランス政府が非を認め了承したかどうかは怪しい。1939年のことである。その直後第二次大戦が勃発し、フランスはドイツに占領され、フランス領インドシナは日本に占領されてしまい、ドサクサに紛れてしまう。その後、日本の敗戦で日本はすべての海外領土を放棄する。そしてこの南沙諸島は再び帰属があいまいになり、現在の国際紛争に至っている。

以前にも書いたことがあるが、この地域は各国が主権を主張している。地理的に最も近い沿岸国としてフィリピン。フランスから独立したベトナムは、1933年のフランスによるこの諸島の先占宣言を根拠としているのだろう。はるか遠く離れた中国が、相手が弱小国ばかりをいいことにゴリ押し的に実力で占拠を始めたのはえらく不当に思えたものである。

しかし、1939年の日本の領有宣言が有効なら、この諸島は日本領土たる台湾に帰属してたわけだから、現在台湾の主権を主張している中国が南沙諸島の領有を主張しても全く不思議はない。上の「大日本帝国---」の標柱は中国の主張にとってきわめて有効な論拠になる。

しかし、中国の主張は尖閣諸島と同じで、そんな些事におかまいナシに、「大昔から中国領土であるのは自明だ」の一点張り。なまじフランスや日本の領有に触れると議論の余地のある論争になってしまうので無視して、実力行使したほうが得策、ということだろう。尖閣でも手法は同じ。

日之影の山奥で、現在のホットな領土紛争についての意外な過去史に触れる事ができた。

※DTI閉鎖にともない、ブログ移転してます。以下にどうぞ。FC2の「一歩 日豊 散歩」

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見立 英国館

  • 2013/08/25(日) 23:56:35

一昨年、見立に来た時には夕方で英国館に入れなかったので、今回は入ってみよう。外見からはあまり英国臭が漂わず、近年建てられた安普請の感があるが、もしかすると内部には意外な発見があるかもしれない・・・・

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P8211660 posted by (C)オトジマ

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P8211659 posted by (C)オトジマ

私夫婦以外にももう一組の夫婦が来ていて、入り口の電話機に入館希望を伝えると、ふもとのカモシカロッジから管理人の老婦人がエッチラオッチラ登ってきて、約10分は待たされた。それにつけても入館料300円は高くはないか?

予想たがわず、内部も安普請だった。床は新建材のフローリングで古くなっており、天井もよれよれになった新建材、暖炉はセメント。置いてある家具もいかにも地元の家具屋から買ってきたようなありふれたもの。木材の産地なんだからせめてオール杉のムク材で作って欲しかったところ。
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P8211669 posted by (C)オトジマ

ユニオンジャックはあるが、英国臭は全然ナシ。

もともとここには見立鉱山のクラブハウスがあってハンターらの外人技師がいた。鉱山関係の資料があるが、これも貧弱である。下は「ユリ鉢」といって、鉱石を水中で揺すり、比重の差を利用して金属をえりわけていた器具。砂金取りなどが使うのを映像でよく見るが、木製というのが珍しい。ケヤキ材をロクロで削りだしたもの。大きい。
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P8211662 posted by (C)オトジマ

近辺のジオラマ。実際の坑口は遠方にあって、鉱石は索道でここに運ばれた。
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えP8211666 posted by (C)オトジマ

選鉱場


索道の鉄塔が遠くに見える
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P8211703 posted by (C)オトジマ

下:索道端末。鉱石を運ぶバケットがぶら下がっている。


この杉林のあたりに昔鉱山住宅が並んでいたはず。
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P8211704 posted by (C)オトジマ

昔の写真。すごい斜面で暮らしてたもんだ。


ここを訪れた知人からは「ステキな建物だった」と聞いたことがあるが、正直言って私にはあまりステキではなかった。できた当初はもうちょっとキレイだったとは思うがステキではなかったはず。安普請は古くなっても古色による風格が出ない。

しかし、資料として置いてあった「ラサ工業50年史」が意外と面白かった。詳しくは次回で-----

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賀来飛霞

  • 2013/08/08(木) 01:27:13

諸塚にある妻の実家は旧家である。山の斜面にへばりつく僻村であるから旧家と言っても裕福には程遠く、長年続いた歴史も風前の灯。後継者はなく廃屋となる日も遠くないだろう。
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P8048531 posted by (C)オトジマ

かつてはカヤ葺き屋根だった。
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P8048486 posted by (C)オトジマ

家業は昔から木炭やシイタケを含む林業である。平地がないので農作物は自家消費分くらい。集落には戦時中に用水ができて猫の額ほどの水田が拓かれている。
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P8048514 posted by (C)オトジマ

敷地の一角に「賀来飛霞宿泊弁指之跡」という石碑が建っている。雑草に覆われ何だかよくわからないが・・・
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P8048541 posted by (C)オトジマ

これは25年ほど前の状態。
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May21~38 posted by (C)オトジマ

賀来飛霞(かくひか)とは江戸時代末から明治初期にかけての本草学者である。1816年、現在の豊後高田市で医師の家庭に生まれた。医業の延長で本草学を学び、薬草採集のために全国を歩いた。その旅行記が多数の採薬記として残っている。日向国には1841年に訪れ、「高千穂採薬記」を著している。(鉱脈社刊の復刻版)
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P8068547 posted by (C)オトジマ

弁指(べんざし)とは九州地方、とくに豊後・日向地方で庄屋を補佐する村役人のこと。賀来飛霞がこのあたりにやって来た時、この家に宿泊した。賀来飛霞はここを訪れた時のことを高千穂採薬記」にこう書いている。(クリックで拡大)


地域の庄屋宅がはなはだ遠いので、やむなく弁指の家に泊まること。主の風体、まだ屋敷が新しいこと、立派な木目の一枚板の戸、床の間の置物、ヘタクソな書、まかないに出た男達のことなどを記している。ということはこの家はおよそ200年近く経っているということ。今でこそ日向市から車で1時間半で着くが、昔は尾根伝いの山道で延岡から2日はかかったのではないか。こんな僻地にも延岡藩の支配は細かくいきわたっていたのである。

この集落で撮った賀来飛霞とは無関係な写真。
下は数年前の一斉地方選挙の村のポスター掲示板。
珍しいので写真に撮った。ここでは候補者たちは談合して同じポスターを作り、経費節減している。選挙運動も談合の上、一日おきと決まっている。一番下にいる黒木正一氏は現在県会議員に出世している。
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P1010054 posted by (C)オトジマ

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仙崎砲台

  • 2013/05/15(水) 00:54:42

蒲江のマリンカルチャーセンターの裏山に高平山キャンプ場がある。眼下にマリカルを見下ろす絶景の地。そこから半島の先端に向けてサイクリングロードがあり、終点が仙崎つつじ公園である。ここに入津湾側の西野浦から登ってみた。標高差およそ300mを九十九折の細い林道で15分くらい。

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img024e posted by (C)オトジマ

西野浦の林道登り口から集落を見下ろす。向こうは西浦湾。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

仙崎つつじ公園からの絶景。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

蒲江、北浦方面。左端水平線に深島。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

空気の透明度が今ひとつで、四国がオボロに見える程度。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

水平線は見えない。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

300mの眼下に豊後水道。まったく白波の見えないおだやかな海面。定置網がいくつも仕掛けてある。
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P5127850 posted by (C)オトジマ

鳥羽一郎もここに来たのかな?
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

つつじ公園を仙崎山から俯瞰。おおきな広場があり、野外ステージもある。水道・トイレもあるのでキャンプもできそうだ。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

西浦湾方面。西浦湾は入津湾の一部で湾は複雑な形状をしている。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

つつじ公園に「砲台跡」という表示があるので、仙崎山山頂方面に登ってみた。公園から整備された遊歩道を登る。山頂の標高は412m。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

セメントの構築物が現れる。土台は積み石である。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

確かに砲台然としている。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

直径10mくらいの円形の構築物が3つ並ぶ。昔は砲塔があったのだろうか。天蓋がなかった可能性もある。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

ネット上で調べても昔の写真がなく、ここに設置されていた説明板はすっかり消えてしまっていた。
なんでも戦時中に海軍が設置した対潜水艦用の15cmカノン砲だったとか。30cmという話もあるが、それはありえないだろう。丹賀砲台が30cmであるがあの巨大さとは比べるべくもないし、砲弾をここまで持ち上げるのは容易なことではない。

仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

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P5127869 posted by (C)オトジマ

この窪みは弾薬庫と思しい。
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P5127880 posted by (C)オトジマ

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P5127884 posted by (C)オトジマ

仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

基部は戦国時代の山城風の石積み。資材は現地調達したようだ。現在では周囲に大きな車道も見あたらないが、麓から400mの高地まで人力でセメントや砲を担ぎ上げられるわけもないので、車道を開削したはずである。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

こうみると本当に山城に見える。
仙崎砲台
仙崎砲台 posted by (C)オトジマ

ちょっとした広場があり、モルタルの破片が散乱している。
台所みたいなので戦時中は司厨所だったのだろうか。
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P5127875 posted by (C)オトジマ

なんでも戦時中には完成しなかったとか。小さな陣地とはいえ、機械力の満足になかった時代だから大変な苦労で構築されたはずだ。いまでは樹林に覆われていかにも廃墟となっているが、昔は展望が利いたと思われる。


豊後水道には各所にこんな砲台が配備されていたのである。近所には鶴御崎の砲台群がある。丹賀砲台については昨年のレポートがあるので参照。


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平戸城

  • 2013/05/08(水) 13:22:42

今回の目的地は平戸島。平戸についてはその昔、南蛮貿易の拠点だった、ということしか知らない。ナビのおおせのままに運転するといつしか平戸大橋を渡り、平戸市街へ。延岡からおよそ350kmくらいか。約6時間の道のり。九州も狭いようで結構広い。

市役所の駐車場に車を置くと、すぐ横に平戸城登り口。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

城山の中腹に広場があり運動場になっている。
天守閣は樹林の陰で見えないが、乾櫓が見えている。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

立派な石垣と、磨り減った石段が歴史を感じさせる。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

北虎口門が見えてきた。ここは搦手だから裏口から登って来たことになる。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

北虎口門は現存遺構。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

入場料500円を払って天守のある本丸に登る。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

北虎口門を見下ろす
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

天守。もちろんコンクリート造。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸藩はおよそ6万石。平戸島と対岸の松浦郡・壱岐国という平野のない所領で6万石とはどうなってるんだろう?延岡藩の7万石とさして変わらない。維新後は内藤氏は子爵に対し松浦氏は伯爵!まぁ、ここらは官軍についた松浦氏と譜代藩だった内藤氏の違いだろう。平戸藩は藩庁を本土の松浦郡にではなく、離島の平戸島に置いている。こんな規模の藩で離島、というのも珍しいのではないか。元が水軍だから離島も苦ではなかったのかも。

天守からの眺めは絶景!! 天気が良くて空も海も青い。島は黒子島。左は平戸港。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

対岸は本土、田平地区。平成の大合併で対岸も平戸市となっている。手前は懐柔櫓。奇妙な名前だ。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸大橋方面。海面に速い潮流が見えている。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

内陸、市街地方面。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸港。海岸部の右手に去年建てられた平戸オランダ商館。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸港はごく小さな入り江だ。これが日本史に名を残す港だとは。正面の丘、左手にはザビエル記念教会があり、右手の中腹にある和風建築が松浦資料博物館。今回はここを見損ねた。またいずれ。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

市役所から市街地へ渡る幸橋。なんと300年前の石橋が現役。上から見てもそれとはわからない。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

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P5057694 posted by (C)オトジマ

平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

ボラがウジャウジャ。他の方のサイトでもこの橋関連でボラの写真があるので、ボラはこの橋の名物なんだろう。
平戸城
平戸城 posted by (C)オトジマ

海底から引き揚げられたオランダ船の鉄製イカリ。3mくらいあってけっこう大きく、現代のイカリとほぼ同じ形。一緒に陳列してある中国船のイカリが単なる石なのに、西洋はやはり進んでいたんだな。
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P5057613 posted by (C)オトジマ

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狗山城のキリ

  • 2013/04/27(土) 13:21:16

門川城は別名狗山城ともいう。依然にその本丸を紹介したことがあるが、門川城は本来は本丸のある小さな丘だけではなく周囲の山に広く展開していた。その山にキリの花が満開である。

遠目にはキリが群生し密集しているようにみえるが・・・
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

山に分け入ると、その大群落がどこかわからなくなる。
上を見るとたしかにキリの花があるんだが・・・
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

どうやら、満開は過ぎているようだ。葉が出始めている。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

大きな花びらがたくさん落ちている。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

この山のキリの木は巨木である。これで太さが50cmほどある。タンスなら10個も20個もできそうなくらいある。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

キリの木は生長が早いというから杉なみだとすると、樹齢5〜60年か。以前にはすぐ近所に家具の指物大工もいたし、門川にも木工所がいくつもあったが、現在では見当たらなくなったので、キリの需要もなくなったのではないだろうか。

キリの木越しに五十鈴小学校をのぞむ。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

かつては里山として開けた段々畑だったのであるが、畑は遺棄されてキリが植林されたようだ。かなり雑草や木が生い茂っているのでヤブ漕ぎしないとキリの花見はできないのが残念。うまく整備すれば南郷のジャカランダよりもきれいな紫の花が楽しめるのであるが・・・

イノシシのワナが。中は草ボーボー。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

クヌギの原木林の新緑が美しい。ここもかつては畑か水田かだったはずだ。
狗山 キリ
狗山 キリ posted by (C)オトジマ

一年中ゾーリ履きで、前回エントリの浅ヶ部88箇所もゾーリで登ったくらいであるが、今回は事前に地主からマムシがウジャウジャいるので必ず長靴を履いて来い、という注意があった。長靴は持ってないので革靴で行ったのであるが、幸いマムシには出会わなかった。

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八紘台

  • 2013/04/15(月) 01:44:09

宮崎市に行く所用があって、お昼のコンビニ弁当を食べるのに、思いついて平和台に行ってみた。はたして何年ぶり?もしかすると40年ぶりとか50年ぶりとかかも知れない。妻は生まれてはじめて来た、と言う。県民とは言いながら、県北にいると宮崎市はなかなか縁遠い。おそらく妻は60年の県民生活で県庁に行ったことがないと思う。

八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

戦後世代は平和台としかなじんでないし、本来の八紘台の時代よりも平和台の時代の方がはるかに長くなってしまったが、私はどうにも平和台はなじめない。日中戦争の最中、太平洋戦争の直前に建てられたあの塔は平和とは縁がないのではないか?塔にはしっかり八紘一宇と書いてあるし、八紘台でぜんぜんかまわない。

人物は私の叔父やいとこたち。叔父は大阪で鉄工所を経営し軍需成金となり、羽振りがよかった。塔には八紘一宇とあるから、戦前か戦時中の写真と思う。戦後10年ほどの間、八紘一宇の文字は撤去されていた。まだ新品の頃。周囲に樹木は少なく、松の大木が生えている。
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hakko-3 posted by (C)オトジマ

八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

四方に四神が立つ。武人・工人・ 農人・漁人の姿。なかなか見事な彫刻である。彫刻家・日名子実三が塔のデザインを無償でやらせて欲しい、と申し出があり、相川勝六県知事が依頼したという。
八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

塔の基部には玄室がある。扉にも細密な彫刻。中は現在空洞のようだ。
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P4146763 posted by (C)オトジマ

塔に用いられた石材は国内や、世界各地から集められた。知事は軍にも石の収集を依頼し、軍は派遣先の各部隊に各2個ずつ送るよう命じた、という。当時は日中戦争のさなかで、派遣軍はおおむね中国戦線にいた。現地部隊の中には、現地の遺跡や建築物から石を抜き取って送ったと思われるものも多いらしい、と聞いたことがある。詳しくはUMKが製作した番組で紹介されたことがあるのでコチラで。

河南省・前田隊、とある。
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八紘台 posted by (C)オトジマ

山東省・水野隊
八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

南京日本居留民会、とある。これはどこかの建造物から抜き取ったとしか思えない。
八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

長岡市教育会
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P4146765 posted by (C)オトジマ

たくさんの石に奉納団体名が刻んであるが、70年の間に風化が進んで読み取れなくなりつつある。

ほとんどの石が黒ずんでいるなかで、半透明でピカピカの石。どうやら石英のカタマリのようである。
八紘台
八紘台 posted by (C)オトジマ

塔から下の広場を見下ろす。
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P4146759 posted by (C)オトジマ

塔の石については「八紘一宇」の塔を考える会(代表 税田啓一郎氏)が研究を重ねている。成果は書籍にはなっているようだが、ネット上に活動記録が見当たらないのが残念である。コチラにはPDFで若干の報告があるが、肝心の資料は添付されてない。




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佐土原城

  • 2013/04/09(火) 01:20:29

鶴松館のすぐ上に出土文化財管理センターがある。まぁ、どこの自治体にもある程度のもの。土器や石器、さらには古い農具などが展示されている。かなりヒマそうな施設で、悠久の時が流れている。昔の「御普請所跡」と標柱がある。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

この駅名版は佐土原駅から持ってきたものか。国鉄妻線があったころのもの。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

佐土原城の山城は戦国大名の伊東氏、江戸時代に封ぜられた島津氏によって200年ほど使われた。山城の本丸は1625年に廃されて、麓の居館が使われるようになった。山城の土木的な遺構は現在でも残っている。
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img011e posted by (C)オトジマ

山城周回路のうち中道を行ってみる。1周2kmもないくらいの山道なので30分くらいか。この日は平日のせいか誰にも会わなかった。女性一人ではこわいかも。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

本丸手前にある枡形虎口。といっても武装の武者が5人も入れば満員になるくらい狭い。各所に陶板の案内と解説が設置。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

本丸。ただの広っぱ。山頂であるが展望は全くきかない。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

堀切。尾根筋を切断し、尾根伝いの侵攻を防ぐ。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

登城路。苔が美しい。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

登城路。本丸にいたる侵入路を狭くして、周囲の土塁から攻撃を仕掛ける。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ
石垣やら建物やらは全くないので、かなりの城マニアでないと楽しめないかも。しかし山道を短時間で周回できるので子供連れにはいいハイキングになるだろう。


麓に降りて、鶴松館裏の菖蒲畑。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ

鶴松館の向かいに「城の駅」が建設中。近々開業とか。
佐土原城
佐土原城 posted by (C)オトジマ




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秋月中学校

  • 2013/03/19(火) 00:44:52

HONDAフィットのCMで福岡県の秋月中学校が登場する。昨年からつづくシリーズCM。九州ローカルのCMかな? 


焼酎「二階堂」のCMはいつもノスタルジックな風景のコラージュである。今放映中のバージョンではやはりこの秋月中学校がチラと出てくる。人物は合成ハメコミである。


校舎は新しいんだが、木造でレトロな味わいがあり、なかなか絵になる建築なんだろう。本物の木造校舎がすでにないってこともあるだろう。秋月中学校は秋月藩の秋月城跡地に立っている。周囲もなかなか絵になる。

下:この学校は「男はつらいよ・寅次郎紙風船」で登場したこともある。寅さんが中学校で掃除する生徒達をからかっている。1981年の映画なので、この校舎はたぶん現在の校舎ではない。


城跡から見下ろす秋月中学校。3年前に撮影。
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

こんなところで学べる中学生は幸せだ。
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

3年前のちょうど春分の日に秋月を訪れた。このブログには記録してないので旧聞ではあるが、サクラの話題として記す。
サクラの開花は必ずしも地理的な南から始まるものではなく、宮崎県は例年早くはない。普段の年だと3月末から4月初めが満開だが、今年は例外的に早くて19日現在で既に満開に近い。

この年、3月21日の秋月ではサクラは満開だった。

秋月城跡。
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

堀と土塁、石垣
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

黒門
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

瓦を埋め込んだ堀にかかる橋。
秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

秋月
秋月 posted by (C)オトジマ

「男はつらいよ・寅次郎紙風船」では寅さんがあの川沿いの細い道を歩く。
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観世音寺の碾磑

  • 2013/02/28(木) 01:51:13

観世音寺の境内に大きな石臼があって、「碾磑」(てんがい)と立て札があった。九博のついでにたまたま訪れた観世音寺であったが、この碾磑というワードにピンと記憶がよみがえった。聞きなれない言葉であるが、石臼のことである。三輪茂雄氏の本(「粉の文化史」-新潮選書)でこの石臼のことを読んだことがある。こんな所にあったとは。
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P2256164 posted by (C)オトジマ

写真下:この石臼を調査に来た三輪茂雄(中央)・森浩一(左)両同志社大学教授。クレーンで上石を持ち上げて内部を調査した。表面は1000年以上の年月に風化しているが、摺動面の泥を洗い流すと素晴らしい8分画10溝の臼の目が現れた、という。三輪氏によれば、大変精密な加工がされた高度な技術のものだという。

写真ではわかりづらいがかなり大きな石臼である。三輪氏のホームページから引用すると・・・・・・
---その石臼は直径1.03メートル、上臼高さ21センチメートル、下臼高さ28センチメートル、重量は上下それぞれ推定約400キログラムという巨大なもの----

400kgもある石を人力でまわすのは困難で、三輪教授は畜力を利用したのではないか、と推察している。
江戸時代、貝原益軒は『筑前国続風土記』の中で、この碾磑が観世音寺造営の折に朱を挽いたもの、という見解を記している。すなわち水銀の鉱石の粉砕に用いられたということ。たくさんの堂宇が立ち並ぶ壮大な伽藍の造営に大量の水銀が必要だったのは間違いない。
P2256157-e
P2256157-e posted by (C)オトジマ

この観世音寺碾磑についての三輪教授の解説はコチラで詳しく読める。前述の書「粉の文化史」の観世音寺碾磑の項と全く同じ内容である。


今から20年以上前か? NHK教育テレビで三輪茂雄氏の「粉の文化史」というシリーズがあった。三輪氏(同志社大教授)が粉に関するアレコレのウンチクを語るものである。これがメチャクチャに面白かった記憶がある。最近、上記の氏の著作「粉の文化史」を買って読んでみたが、内容的にはほぼ同じようだ。出版年もおよそ25年前だからテレビ放送と同じ時期のようだ。

下:延岡、内藤記念館にある巨大な石臼。何に使ったものか?豆や小麦をひくには巨大すぎる。やはり鉱石か?なにも解説はなく、放置されているのでわからない。
内藤記念館
内藤記念館 posted by (C)オトジマ

粉は人類の農耕の歴史とともにある。米の場合にはそのままでとても食べやすいが、小麦の場合には必ず粉にしなければならない。そこで石臼が発展することになる。昔はどこの家庭にもあったあの石臼である。ひき臼ともいい、英語ではロータリーカーンという。日本では餅つきの搗き臼と同じくウスと呼ばれて紛らわしいが、まったく別物である。私の住む東臼杵郡という地名には臼と杵がセットで入っているがこれは搗き臼。ひき臼にはキネは必要ない。

このひき臼の模様が世界共通だという。決して偶然ではない。これはどこか地中海沿岸で発明されたロータリーカーンが世界中に伝播したことを示す。だから他の文明と隔絶していたアメリカ大陸のインカとかサハラ以南のアフリカなどにはこれがなく、サドルカーンという、ロータリーカーンの前段階のものしかないそうだ。サドルカーンというのは単に平たい石の上で別の石を動かし穀物をひき潰すだけ。サドルカーンからロータリーカーンへの進歩には巨大な技術的飛躍があるという。どこで誰が発明したのかはわからない。

サドルカーンの例--ウィキペディアより---


三輪教授のサイトから引用した臼の目のパターン

臼の目のパターンは世界共通で紀元前にはすでに世界各地に広まったという。車輪の発明と同じようなもの。日本にははるかにおくれて伝播した。それが観世音寺の碾磑である。日本では庶民が使うように広まったのはそれからまた1000年あとの江戸時代のことらしい。

上のように全体が6分画されたものと8文画されたものがある。日本では地域性があるという。上の内藤記念館の臼は8文画である。回し方は反時計回りで世界共通だという。多数派である右利きの人には右側で押した方がラクだからである。ネジが右ネジになっているのと同じようなもの。

三輪先生のウスに関する話は興味が尽きない。三輪先生は残念ながらすでに亡くなっているが、彼のホームページは後進の研究者のために残されているので、彼の研究の一端をうかがう事ができる。興味ある方はコチラへ

搗き臼もひき臼も重たくておいそれと移動できないので、古い家では庭先とか納屋に放置されていることがままある。私の家でも父がひき臼を何組か組み合わせてセメントで固めて庭のオブジェにしていた。30年前に家を壊した時に廃材と一緒に業者がどこかに廃棄してしまったものだろう。搗き臼は姉の家で水盤になって金魚が泳いでいる。

これは義兄宅の庭の搗き臼。植木鉢になっている。
P4142119
P4142119 posted by (C)オトジマ

どこにでもありふれたひき臼であったが、子供の頃にだれかがひいているのを見たことはあるが、私自身は使ったことはない。やはり食品を粉砕する道具であるすり鉢すら使ったことがない。現代人には縁遠くなった道具である。「轢く」という作業はコーヒーミルくらいしか思い浮かばない。

国東半島の瑠璃光寺にはおびただしい数のひき臼や搗き臼がある。重いのと場所をとるので、一般人にはマネできないコレクションである。檀家が不要でジャマな石臼を寄進したものか。臼マニアには垂涎の寺。臼マニアがいればの話であるが・・・
瑠璃光寺
瑠璃光寺 posted by (C)オトジマ

P4081933
P4081933 posted by (C)オトジマ




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