スノーマンと第九

  • 2011/12/19(月) 01:17:12

このブログでは個人的な身辺雑記はなるべく書かないようにしているが、年末多忙の折、あまり報告すべきこともないのでご容赦のほどを。

土々呂に住む昔なじみがピアノの発表会をするというので手伝った。プログラムを作ったり、会場の装飾を作る、程度である。今回は「ウィンターコンサート」というタイトルなのでスノーマンを作った。発泡スチロールで簡単に作れる。雪ダルマは形もシンプルなのでデッサンも容易だ。接着剤は専用のものが必要になるので、両面テープや爪楊枝で文字や目鼻をくっつける。




下:カルチャーセンターのべおか、ハーモニーホールはピアノ発表会に最適な広さ。


下:これは数年前の「秋のコンサート」。イスは学校の廃棄物に着色。花は野の花なので金はあまりかかってないが、なかなか洒落た装飾に見えませんか?


ところで。この前日、17日土曜には延岡文化センターでは「延岡第九を歌う会」による年末恒例のコンサートがあった。ご存知のように第九だからたくさんの出演者が出るし、プロ歌手や指揮者もいる訳だから大量の花束の需要があったらしい。市場の狭い延岡のことだからこの一つのコンサートのせいで延岡中の花屋から生花が姿を消したというウワサである。だから翌日のこのピアノ発表会には花が届かないだろうという予測でポインセチアの鉢を飾ったのであるが、幸い一つ生花が届いていた。



17日夜の「第九を歌う会」演奏会の前日、16日夜には「のべおか第九を歌う会」の活動を描く映画「ここに生きる」の撮影が本番と同じように文化センター大ホールで行われた。
映画の概要を聞くと「フラガール」や「スイングガールズ」風のお話のようである。この手の映画は周防正行監督の「シコふんじゃった」以降、種目は相撲、ダンス、ブラスバンド、男子シンクロ、野球、バンド、喉自慢、と多岐にわたれど近年の日本映画のパターンの一つになっている。合唱でもすでに「うた魂」がある。洋画でも「天使にラブソングを」という合唱がテーマの傑作があるし、「ブラス」は田舎の炭鉱のブラスバンドの話でちょっと似た設定かもしれない。
「ここに生きる」の場合には地域起こしの側面がある。映画を支援する会の会長に首藤延岡市長が就いている。俳優も地元の素人を使う。また製作は大手映画会社とつながりがない地域のプロダクションによっているので、上映も各地の公民館を自主上映で巡回することになる。商業的には大変だろう。プロデューサー兼監督は県内で活動する堀有三氏が務める。成功を期待したい。
詳しくはココの記事を参照。

下:映画撮影の様子。とはいってもカメラがある以外は17日の本番と全く同じだろう。写真は朝日新聞より。

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「赤い鳥」 高森通夫の詩 2

  • 2011/07/20(水) 01:05:19

前回エントリの続きで高森少年の詩の紹介。

下:高森少年の通った東郷小学校は児童数減少で、中学校と併合し、東郷学園となっている。


高森通夫は宮崎中学校に進学している。現在の大宮高校。
兄の文男は最寄の延岡中学校である。
中学校時代にも「赤い鳥」への投稿を続ける。

宮崎市県立病院前谷口方(十三歳) 高森通夫

魚売り

雨がやんだね、
魚うりが行くね、
四かくな籠に、赤いきれのせてね。


宮崎市県立病院裏門前谷口方(十三歳) 高森通夫

夏の思ひ出 (佳作)

白くけむつてゐる、
人目の中で、
絵を描いたよ。
夕方に近い
河原の中だつたよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨あがり(特選)

雨あがり、しつとりと、
みなふくれてる感じだ。
なにもかも紫いろだ。
風がなく木々はみなしづかだ。
ぽとりと一直線に、
びわの葉がおちた。
夕暮れの日。


北原白秋はこの詩を大変ほめている。自著にこの詩と既出の「午後」を鑑賞作品として収録している。

宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨の朝(佳作)

雨の朝、乾物屋の屋根の鳩、
黒く見えるよ。
胸をふりく歩き出した。
二羽で仲よくならんだ。
瓦が白く光つて、
うろこのやうだ。
鳩は飛び去つた。
隣からうすい煙がのぼるよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

日 向 (佳作)

近頃は秋だよ。
つめ切るに、かげは寒いよ。
日向でつめ切ると、
なつかしい思ひ出がうかぶよ、
地とりして遊んだころの。
つめは靴のそばに落るよ。
朝、
こじきの子のおとしたお菓子、
今は日向になつてゐる。
蟻がそれをはこばうとしてゐる。


日向はヒナタと読む。
単なるツメ切りという日常行為が立派に詩になっている。
ヒナタに落ちてアリが引くのは単なる菓子ではなく、コジキの子の落としたもの。それが詩に情を添えている。
今やコジキを見かけないのでなおさら気になる。
ナベカマを下げムシロを丸めて家族でさすらうコジキを見たことのある世代も私が最後だろう。

下:映画「秒速5cm」より


宮崎市宮崎中学校二年生 高森通夫

成績発表のあつた日

夕日の残つてゐる運動場、
ただこの運動場だけ、
夕日がのこつてゐるやうな、
さびしさ。
あさぎ色の空に、
五月の鯉が泳いでゐる。
舎生が運動してゐる。
白パンツ、青のユニホーム。
夕日は、夕日は、
つかれきつてゐる。
神武のうす暗い森は白つぽく、
成績発表のあつた日、
道場のそばに腰かけて、
僕は一人、
運動場をながめてゐる。


この詩を読むと80年の時代の隔たりを感じない。
宮崎中学校は今の大宮高校で、神宮の森のそばである。放課後の校庭の様子も変わらない。芳しくない成績に憂鬱になるのも今も昔も同じ。
風景の描写のみで彼の心象の憂鬱を的確に表現している。
13歳くらいでこれが書けるというのがすごい。

宮崎市上野町二丁日中尾方 高森通夫

古馬車

なつかしい古馬車。
町の裏通を古い馬車がいく。
灰色じみた馬車。
昔は赤かつたらしい
車台の一部も灰色じみて、
くもり日の町をだまつていく、


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「赤い鳥」  高森通夫の詩 1

  • 2011/07/19(火) 02:16:42


上:東郷町成願寺から見た山々

赤い鳥の投稿者で採用される常連は大勢いた。既述のように一人で50編も採用されるような、プロ並みの文学少年少女の一群がいたのである。

宮崎県では高森通夫が突出していた。昭和7,8,9年頃に12編ほどが「赤い鳥」に見える。小学校5年から中学2年にかけてである。その後、「赤い鳥」が廃刊されている。

高森通夫は宮崎県東臼杵郡東郷村(現日向市)出身。既述のように詩人である兄、高森文男を持ち、彼に影響された面も多いだろう。長じてからは医師となり延岡市で高森皮膚科医院を経営するかたわら歌人として活動した。

出身地の東郷は若山牧水の出身地として有名である。
高森の生家は資産家で裕福だった。だいたい詩人というものは裕福な家から出る。昔はなおさら。若山牧水の生家は医師。ちなみに現在の詩人とも言うべきシンガーソングライターの実家では、井上陽水は歯科医、中島みゆきは産婦人科医、松任谷由美は老舗呉服店、竹内まりやは町長で老舗温泉旅館、さだまさしは裕福な材木商。

下:昭和30年代の東郷、山陰(やまげ)の国道。このあたりに高森の実家「豊後屋」があった。


菅邦男教授は、高森通夫は宮崎県では稀有な存在であった、と述べておられる。そう聞けばいかな子供の作品といえども読みたくなるではないか。
土々呂小の作品もそうであるが、県内からの掲載作品は熱心な綴方教育教師の指導の下で学校から投稿されたものであるのに対し、高森は個人で「赤い鳥」を購読し、個人で投稿していた。当時「赤い鳥」は高価な雑誌であったから普通は田舎で子供が個人で購読するようなものではなかったらしい。

一般に小学校からの投稿作品が児童詩特有の素朴さ、類型性、土着的、生活感、方言の面白さ、などの傾向を持つのに対し、高森の作品にはそういうものでなく、天性の詩心を感じさせる突き抜けたものがある、というのが菅教授が「宮崎県では稀有な存在」といわれる訳のようだ。
そういわれれて読めば、なるほどそうである。

下:東郷町を流れる耳川。この川の川原でタコ揚げをしたものか。


情景を切り取って余情を感じさせる、といった彼の詩はちょっと田舎の児童の作品とは思えない、年次を追って紹介する。評価は「赤い鳥」の選考による。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校 尋五 高森通夫

あの人  (推奨>

私はあの人知つてます。
私が入院してる時、
一しよに入院してました。
私は退院したけれど、
まだまだ入院してました。
あの人、道を通るとき、
赤ちやんおぶつて通ります。
私を見ると笑ひます。
しづかにやさしく笑ひます。
ほほは赤くてふくらんで、
やさしい顔をしてゐます。


こんなテーマが詩になるの?というような作品である。彼は幼くして母を失っている。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校尋六 高森通夫

午 後  (特選)

学校からかへつて、
ごはんをたべて出たよ。
かち粟をかじつて、おうかんに出たよ。
弟をつれて墓に行かうと思つて。
おうかんは白い、ずうつと白い。
午後、
向うで友だちが石ゆみ引いてゐる。
こちらむいて笑つた。


なんで墓に?母の墓か?
昔の舗装されていないホコリっぽい道。
遠くの友だちの笑い顔が印象深い。
2行目は不要だろう。

東郷小学校尋六 高森通夫

昼の月   (佳作>

学校からかへるとき
見たよ、
白い大きな月を。
山の木立のそばに
半分はきえて、
昼の月はうすいな。


宮崎県束臼杵郡東郷小学校 尋六 高森通夫

たこあげ

たこあげに
川へ行つたが、
風が
すくなくて
一度しか上らず、
西の空
赤くなつて、
人も馬も
赤かつた。
夕ぐれの
しづかな川原、
砂ふんで一人かへつた。
西の空はまだ赤い。


下:東郷町山陰の国道から冠山を望む。

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山村の子供の綴り方  西臼杵上野

  • 2011/07/17(日) 01:29:09


上:現在の高千穂町、上野近辺。

西臼杵郡上野村(かみの)は現在は高千穂町の一部であるが、1969年までは独立した村であった。今でこそ延岡から熊本に抜ける国道が改良され、延岡から1時間で着くが、昔は僻村中の僻村だったのではないだろうか。

上野小学校にも佐藤実という熱心な綴り方教師がいたようだ。
ここの子供らが遠足の弁当について書いている。
80年前の土々呂小の子供たちの遠足弁当は海苔巻きやユデタマゴの弁当でなかなかおいしそうであったが、はて上野は。

遠足でべんたうをたべたこと     上野小  3年  坂本邦雄
 
 かやのねもとで、べんたうをたべた。
 私と正男君と昇君でべんたうをたべた。昇君が
「かつひこ君、ここでくおだ」
と言つたので、私と正男君で、おゆなるとおもしろくないので、
「もういふな」
と言つた。昇君が、
「山の神様に、飯を上げておこだ」
と言つた。けれども、私と正男君は上げなかつた。舜君の飯はしら飯、正男君の飯もしら飯であつた。私のだけが、まぜ飯であつた。正男君のさいは、いわし一ぴきであつた。昇君のさいは、こんこのさいであつた。正男君も山の神様に飯を半分上げたから、私も半分上げた。けれども、ちつともくはつさんから、「さいがないからだらう」といつて、みそづけを上げた。けれどもくはつさんから、「もう上げんばい」と言つたら、正男君と昇君が笑つた。正男君の笑ふ時には、小ばなのもとに、ふくれたものが立つ。昇君の飯のくふやつがぬうなつたから、上げて居た飯を取つてくつた。正男君もとつてくつた。
 あたりに、人の話すこゑが聞えてくる。
 向ふのもみぢが、松の木を後にしてゐる。たきの水も白くて、ざあざあとおててゐる。白いぶくがたつてゐる。くろばるの杉も見える。下のみちに、しもばしらが立つてゐる。それが日にてらされて、とけて、じるくなつてゐる。
じやうりをふんで来たものは、こまつただらう。もみぢの中でも、一番赤くなつてゐたのは、たつが岩やのこつちのであつた。


※おゆなる-----多くなる
※しら飯-----白米。昔は麦飯、稗飯、いも飯などが普通。
※さい-----菜、おかず。普通は「せ」「飯んせ」と言った。
※こんこ-----こうこ、たくわん。
※じやうり-----ぞうり

土々呂小の作文とは少し趣が違う。方言の面白さは同じであるが、地の分が、ですます調ではなく、小学3年にしてはえらく大人びている。漢字も多い。
内容は面白い。弁当を山の神様に本当に上げたのであるが、ちっとも食べないのでオカズがないからか、と思ってオカズもあげたが、やはり食わないので自分で食べた。というのは笑える。

注目すべきは弁当の内容である。白飯組の二人だってオカズは片やイワシ、片や漬物。混ぜ飯の自分は味噌漬けというから遠足にしてはえらく質素である。土々呂の方がかなり恵まれている。しかし粗食にめげずに紅葉を楽しんでいるところがなかなか渋い3年生たちである。
今のガキどもにもそんな弁当を食わせてみたい。とエラそうに言う私もそんな粗末な遠足弁当の記憶はないのであるが。

現在88歳の義父は諸塚村の人である。聞いてみたら、小学校の遠足に特別な弁当を持っていった記憶はないという。せいぜい握り飯というから上野の子供たちと変わらない。普段の登校でも弁当はまぜ飯どころか、イモしかなかったと。恥ずかしいから教室では食わなかったという。盆と正月、それに運動会くらいで白米が食えるのがうれしかったという。

まぜ飯、というが私は幼い頃、米・麦半々くらいの麦飯を食った記憶がかすかにある。ちょうど池田首相が「貧乏人は麦飯を食え」と言った時代である。しかし、昔のまぜ飯というのはたとえば稗8:米2、あるいはトウモロコシ8:米2、それにイモを加えたくらいのものだったようだ。パサパサしてなかなかノドを通過しにくい代物。いまネットでまぜ飯を検索するとこぎれいでおいしそうな写真ばかりが並ぶが、昔のまぜ飯は日本の貧民の悲しい記憶なのである。

べんたう    戸高 崟

「しげとし君、べんたうは、どこでたぶるかい」
「かやの所でたぶだ」
「うん」
行つて見ますと、すみよし君と、みくに君がゐました。そこにすはつてべんたうをたべました。
すみよし君「たけんかはに、つつんでこんきじやい」
みくに君「うちには、たけんかはがねき、つつんでこんわい」
僕 「おまひたちは、べんたうを、いくつ持つて来たかい」
みくに君 「にぎりめし二つに、だんご一つ」
僕 「すみよし君な」
すみよし君 「にぎりめし二つ、おまひは」
僕 「おんどんも二つ、しげとし君ないくつかい」
しげとし君 「やつぱ二つ」
すみよし君 「みくに君な、もう一つくたわい」
僕「おりも、もう一つくてしもたぞ」
しげとし君 「みんなはえね」
僕 「おんどんな、もう二つめの、はんぶんをくてゐるちやが」
ながもり君が来て、さうだうをしてゐた。
ながもり君 「もうべんたうをくてしもたぞ」
しげとし君 「おどんな、ここにねて、しを書くぞ」
僕 「一ばんさきに、べんたうのしを書くぞ」
そのつぎには、もみぢをかいた。


のどかな会話が韻を踏んでいるようで印象深い。
遠足の目的は詩を書くことにあるようだ。すごい遠足ある。

下:上野の商店街。

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山村の子供の綴り方  宇納間

  • 2011/07/16(土) 01:31:32

土々呂、門川は漁村であるが、大正時代には鉄道が通ったのでまだしも文明の流入は早い。田舎とはいえ宮崎県では綴り方教育で先進的な実績を残した。
さて、山間部ではどうだったんだろう。80年前の宮崎県の山間部といえばそうとう不便な僻地であったはずだが、立派な成果を上げている。結局は教員の熱意次第。
これも菅邦男氏「綴方教育と赤い鳥」から引用。

まずは門川町の隣、北郷村(現、三郷町北郷区)から。北郷は現在では道路改良で門川から車で1時間もかからないが、昔は孤立した山村だったはずだ。昔から宇納間地蔵尊で有名である。
役場のあった中心部から1kmくらいの所に北郷小があり、下の作品の少女はさらに5kmほどはなれた入下分校の生徒。
宇納間地蔵の祭りに母に連れて行ってもらったことを書いている。彼女の家は分校のある国道沿いからさらに3kmほど谷筋を分け入った轟内谷(土々呂内谷)であるから、家から宇納間地蔵まで8kmを歩いていったことになる。

下:五十鈴川が北郷村を東西に貫く。


おぢぞうさん

田村ハツ子   北郷尋常小学校 入下分校2年  前田彦太郎先生指導

 この間おかあさんと おぢぞうさんまゐりに行きました。かずちやんとこに行た時にはかずちやんどもはもう行てしもておりました。それで 私たちはいそぎました。けれどもおひつかんでした。その日はふるの正月二十四日でした。村に行たおりにはまだ人がいきよりなさいました。そしてくみやいによつてみよちやんがたびをかりなさいました。その時くみやいには高いバスがとまつてゐました。私は「あのバスにのりたいなあ。」と思ひました。そしておかあさんに「自動車にのつていこや」といつたらおかあさんの「のるといんま三十銭やらんならんぞ。」といひなさいましたからのりませんでした。
 うなまにいきついたら人がたくさんゐました。私はそれを見て「あらあんげ人が集つとるが足にのぼられはせんどかい」と思ひました。私はおかあさんのたもとにとづいて人をせりわけせりわけしてあるきました。人が私の足にのぼつたりしていたいでした。にんぎやうくわしやあそびどうぐやゑ本やよきやなたやはさみや色々なものがありました。それからおぢぞうさんにまゐりました。上の方に上つて見るとおそろしいでした。おかあさんはかねをかんかんとたたいておがみなさいました。それから下へ下りました。おじるおりにはおもしろくて私はどんく下りました。
おじつて私はおぢぞうさんのおもちやをかつてもらひました。それから一寸ばうしのおるとこに行つて見ました。一寸ばうしは小さくてあたまが大きくてあたまは、はいからにしてせがひくくてこえてゐました。それでもみよちやんが泣くからいつときしか見てゐませんでした。それから外へ出た時にはぜには十銭か十五銭かでした。それからおかあさんとうなまのすえをばさんとこに行きました。そしてばんになつてくわつどう見にいきました。一ばんあとがよいでした。男の人と女の人がだんを下つて来よりました。そこには大きな木があつて その前に人が一人か二人かしんでゐました。その男の人はおそろしくてめんめ方ににげていにました。女の人は木になんかかつて下を見たらおずしてこしぬけがして逃げていきをした。そしたらあたまの毛の長いからだがまがつた男の人がとぐちをあけて女の人を出しました。そしたらその人が「何もおらんが」といつてさがしました。
 そのばん私はすえをばさんとこにとまりました。さうして朝になりました。私とおかあさんはみせのにつきに行つていつときあそんでいにました。いぬる道でおかあさんはやくばによりなさいました。やくばから自動車にのつてかへりました。その日は私はけつせきしました。


※ふるの----旧の
※おじる----おりる、のことか。
※なんかかって-----寄りかかって

敬語の使用のみならず漢字も多く、とても尋常2年とは思えないほどだ。入下分校には1・2年しかいなかったというから本当に2年なのだろう。土々呂の木村学級の児童顔負けである。
終盤、映画の場面は例によって意味不明。一般に子供には映画の感想は難しいようだ。

普段は変化に乏しい山間の僻村。年に一度の祭りに行く。入下から見れば宇納間だって都会に見える。さらに普段見たこともない大勢の人間、露店、見世物。さらには屋外の臨時スクリーンの活動写真。自動車にも乗った。それは特筆大書すべきイベントである。今、田舎の子がディズニーランドに行くより大事件であろう。
延岡大師もそうであったが宇納間地蔵も刃物商の露店が多かったようだ。山村の人々にとって刃物は仕事の必需品。
「一寸ばうし」とは、小人症の人のことか。昔は見世物になっていたものだろう。

下:宇納間地蔵大祭昭和37年。 右は現在。


下:参堂階段から宇納間地蔵の町を見下ろす。


下:彼女は地蔵のおもちゃを買ってもらった。はたして子供に楽しいおもちゃなのか?? ちなみにこれは胎内に願かけの紙を入れて奉納するためのもの。500円。

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「赤い鳥」 と門川

  • 2011/07/14(木) 13:16:06

赤い鳥には門川の草川小からも5編ほど掲載されている。
昭和6年前後、ほぼ木村寿が土々呂にいた頃、草川小には綴り方教育に取り組む教師グループがあった。校長も協力的であったというから、孤軍奮闘の木村の場合と異なっている。

下:昔の草川小。


柴田清一、加藤亮一、平田宗俊の3名の教員を中心として「草川文苑」という学校文集があった。つまり学校全体としての取り組みだった。土々呂も当時は東臼杵郡伊福形村であるから田舎であったが、門川はさらに田舎である。当時の宮崎県では東臼杵の郡部、山間部で先進的な事例が見られるというのも面白い。

「赤い鳥」からまず、詩を1編。

草川小学校   尋常四年   金丸 実 (昭和6年)
 
しづかな夜(佳作)

しんとした夜、
まつくらな夜、
たれも通らぬ
まよなかに、
お父さんのさけのむ
とうふかひに、
まあるいまあるい
あかぜにを
五つもつていつたんだ。


詩の力によって明確なイメージを読み手の脳内に醸成させてインパクトを与える、という点から見るとほとんどプロ並み。北原白秋なみ、と思うのは私だけか。絵心のある人ならその情景を絵に描きたくなる。1銭と言わずに「あかぜに」というところもいい。当時の1銭は昭和30年代、40年代の10円と同じくらいのイメージらしい。大きさ色合いも同じ。
昭和レトロ世代は先刻承知であるが、若い世代のために。昔、豆腐を買いにいくには容器を持参した。ノビタは豆腐をナベから落とさぬよう用心して歩いている。実はノビタ昭和35年の生まれ。


木村の土々呂小は低学年だったが、草川では高学年の作文がある。牛の出産をめぐる家庭の様子を描く。昭和6年。

牛の子    草川小学校 尋常6年 松井シズエ

 学校の門を出た。やがておやすをばさんの家のきどへ来た。私とみんなとさようならをして、たんぼ道を通ってすこしさかを上がって行くと、家のおばあさんがきどへ出てゐて、「だい、よい、だい、よい。」と向こうの方をむいて、しきりにさけんでゐられた。
私は何ごとかと思つて、「なんの。」と言ふと、おばあさんは私の言つた言葉をほつたらかしておいて「あら、だいをぢさんぢやろうが。」と指さして言はれた。おばあさんは目がよく見えない上に、だいをぢさんのをられるところは遠いので、はつきり、だいをぢさんといふことはわからない。私はだいをぢさんと言ふことを知らせておいて家へかへつた。
家へかへつて見ると、思ひがけないことにおどろいた。今まで腹が大きかつた牛が、急に悪くなつてゐた。家には守をぢさんや、ほかの人たちが、二三人きてをられた。
すぐに本をおろしておいて、牛小屋にいつた。牛は苦しさうにねてゐた。さうして、苦しいいきをして、目をつむつたり、あいたりしてゐる。そのやうすはいかにもかはいさうである。お父さんが、「よんべ、まるべにひつぱつていたつちやが、そしたな、橋がぐわたつッたが、ありたまがつて、とび上つたつちやが、ちりが、おけたつちやねが知らんわ。」と心配さうな顔をして言はれた。
やがて、おばあさんが、だいをぢさんをつれてかへつてこられた。だいをぢさんはきどの方から、「どんがらこつかい。」と言ひながらこられた。おばあさんは、牛小屋をのぞいて、心配さうな顔で、「おりやも、知らんどへ。見ちやをらん。」といつて向うの方へいかれた。やがてお父さんが、「きゆうひよかつと、ちゝが大こななつたつちやが。」といはれた。ちゝが大きくなると子がうまれるのです。私は子をうむとき、死にはしないかと心配して、いつまでも家へをつた。するとお父さんが、「わりや、はよ、子守にいかんか。いま、いも植ゑぢやから、せわしとど。」と言はれたので、ほんたうだと思つて出かけた。
おきまをばさんの家へいつて見ると、だれもゐなかつた。どこもこゝもさがしてまはつたが、をらない。私は牛が心配になるやら、書方を書かうと思つてかへり出した。かへるとき、ちようど、あきのさんが、私の家へあそびにいく途中でした。それでいつしよにかへつた。
かへつて見ると、家には大ぜいの人たちがきてゐなさいました。牛を買ふぱくりようさんもきてゐて牛を見てやつてゐなさつた。私がいつてみると、牛が子を生みかけてゐた。おばあさんが私に、「わんだ、見るもんじやねど。」と言はれたので、足をあらつて書方かきにとりかゝつた。やがてするととつぜん、ぱくりようさんが、「あゝ、うなめじやうなめじや」とさけばれた。それといつしよに、をとなの人の口から「うなめじや、うなめじや。」「酒を一しよ、とらんならんど。」といふこゑがきこえた。私はうれしくて、むねがをどつた。


※まるべ-----マルバエのことではないか
※ぐわたつッた-----ガタッといった
※ちり-----発作
※ばくりょう------博労
※うなめ-----メス
※一しよ-----一生

やはり地元の人間には方言が面白い。
さすがに今ではあまり聞かれない表現が多い。

もう1編、漁船の遭難を描いた作品。「赤い鳥」昭和7年掲載。

  ながれ舟(佳作)

         尋常四年   朝倉コトリ

二三日前のことであつた。私たちがぬくたもりでおかあさんやみどりさんのうちのおかあさんたちとぬひものをしてをると、急に風がはげしくなつて来て、海の水は冬の寒い風の日らしくなつて来た。
おかあさんたちは、いかつり舟がおきの方へ出てゐましたから、心配せられた。私が沖をふり向いて見ると、小さないかつり舟は村へひきかへしてゐましたが、叉もとをつたばしよへあとがへしてゐました。
それからいつときたつと、さんぢをぢさんが山から両眼鏡をもつて走つてこられた。さんぢをぢさんは、両眼鏡でしろけむりの立つてゐる沖を見ながら「あらだりかしらん。」とつぶやいてゐられました。するとどこからか、三ぞうのちがつた舟が一しよに波にのまれさうに島に向つていきました。さんぢをぢさんは、なほもよく見てゐられましたが、「あらひつくりかやつた。」とさけばれると走つていかれましたが、「あんちやん、あんちやん」とおどろいたやうにして、みどりさんのうちのおとうさんをよばれた。すると、上の方の道からかけおりてくる音がしたので、私が土を見ると、みどりさんのおとうさんである。をぢさんが、「いまどこんとかしらんが、舟がひつくりかやつたわ。」とおつしやると、おどろいてすぐに「どこか。」と目をまるくしてみわたされた。「あしこだ。」と大きなこゑでいはれたかと思ふと、すぐに、「わんどま、はよいんで、きかいせんをやれ。」と私のうちのうら山に目白とりに来てゐた子供にどなられた。六人の村の子供は、だまつて返事もしないので、しかたなしに、さんぢをぢさんは、はしつて村へしらせにいかれた。私も一しよに走つて家へかへつた。おとうさんは、かまとわらを持つて、うちをでようとしてをられましたので、私が、「あんの、今、舟がひつくりかやつた。」といふと、おとうさんはびっくりして、「どこぢや。」といはれた。「あしこん、じようきが入つとこん、西の方にしまがあるがやの。」といふと、ひきかへして、「いかにやならん」といつて、かまやに、いそいではいられた。するとおしつなから、きてゐられた、こさをぢさんが、「ふねのりがをんのや。」とたづねられたが、みんなをられないので、「ふねのりがをらんわね。」といひながら、又私たちがもとをつたところへはしつていかれた。
私はそのとき、まあ、あの人にだれもたすけにいかなかつたら、あの人はもう死んでしまはれるだらう、かはいさうだな、とおもひく家にはいりました。けれども心配でく又もいつてみました。ちようど私がいつたはないに、おしき舟をこぎになやのをぢさんところの、五十ばりきのきかい船が東の方をむけてはしつていきました。おとうさんは、「いけだんてやが。おしきぶねを、たすけにとぢやん。ありがたいな。たいがい、いのちには、せやわねわ。」とおつしやつた。
いつときたつと、おかあさんがこられたので私が「今、おしき舟むけにいけだんとがいた。」といふとおかあさんはおとうさんに、「おまや、はよ、やしんはまによぞが着物をもつていらつしやい。」といはれた。すぐにお父さんはうちへかへつてねえさんに「ひつこみから、あんちやんが着物をもつてけ。」といはれた。ねえさんはすぐに二枚もつてきてもたせてやりました。おとうさんはほかぶりして、うちの向うの坂を走りあがつて行かれた。ちようど犬きな池のあるところに行つたら、向うから、二人だれかきて、おとうさんに、「おまやどこにいくとの。」といはれると、「おしきのもんに、きものをもつていつてやりよつとよ。」といはれた。その人が、「もうおしきは、くぢ、いによるばい。」
と言はれると、父はひつかへしてかへつてこられた。そしてしばらくたつてうちの前を通つていかれた。
私がかないそうの方に行くと、さつきの舟の一そうは、さきの方からだんくとしずもつてゐた。そのとき兄さんたちは、はつどうきにのつてゐたさうである。又ほかの小さな舟は、水くみが一しやうけんめいであつたさうである。
あとで友だちの話をきけば、みんなかやつたのは十そう、そのふねにのつてゐる人は、十五人だつたといふことで、そのうち一人はなくなられたといふことである。たすかつた十四人は、赤水や細島から汽車でたいがいかへつてこられたさうである。
私はあの一人の人は海の底のどこかに死んでゐられるであらうとおもふとぞつとする。


※かないそう-----金磯

会話のなかの方言は私でもわからない語がある。地名と思しきもあるが、よくわからない。大事件をめぐる集落の人々の緊迫感を描写しているが要を得ていない所があるものの、鈴木三重吉からは好評価を得ている。4年生でこんな長い込み入った事象を描けるというのがたいしたもの。

下:金磯から乙島を望む。

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木村寿の綴方教育 

  • 2011/07/13(水) 16:23:39


上:昭和初期の土々呂小学校。

今では小学校に30人学級が導入されはじめている。すなわち40人近くの生徒をきめ細かく面倒を見切れない、ということ。まったくそうだろう。20人だって大変だ。

私が子供の頃はクラスは40人台だった。昔の子供は素直だからそれでも騒いだり、私語をしたりはなかった。今とは時代がちがう。現代は国民的にタガがゆるんでいる時代だ。

ところが、昭和ヒトケタ時代の木村寿教諭のクラスは男子ばかり50数名。さらにはその中に2名の知恵遅れ児童がいたという。現在そんな学級を担任させられるとしたらかなり腕の立つ教師でも授業はなりたたないだろう。木村はそれをきびしく統率して、高い学力をつけさせつつ、週に1度は校外の山や浜に遊びに連れていったりして子供に慕われた、というから、今の基準でいえばスーパー教師である。

いや、当時の基準でも立派にそうである。
菅教授の「綴方教育と赤い鳥」から引っ張るとこうだ。

岡富小時代、三十数名の職員の中でも木村の出勤は断然早かった。それも8kmの道を徒歩での出勤である。子供の来る前に教室を掃除し生徒の机を磨き上げ、登校してくる子供に「おはよう」と呼びかける。

常に綴方原稿や文集などを大きな風呂敷包みに持ち歩き、一刻のヒマを惜しんで仕事をしていた。ガリ版だけでも猛烈な仕事量である。もちろん家に持ち帰っての仕事も多かったはずだ。
だから、職員室で雑談したり碁を打ったりということもない。酒、タバコはいっさいやらず、同僚とスポーツに興じることもない。つきあいの悪い変なヤツという見方もあっただろう。
子供にもきびしいが、自分にはその数倍きびしく、サボる教師、だらしない教師、すじを通さない校長には時にずけずけと批判したという。
膨大な量のガリ版文集を発行しているが、なんとその費用は自己負担。現在のように学校の資材を使い放題という時代ではなかったのだろう。

木村は土々呂小時代を振り返り「日曜もなにもない血みどろの3年間」と言っている。それがゆえに彼の文集「光」は全国的な評価を得て「赤い鳥」にも掲載されたのである。もちろん、綴方バカとそしりを受けぬよう他の教科指導にも倍する力を入れ、担任クラスの学力も高かった。

今、それを読む我々は「素晴らしい教師の鑑だ!」と思うのだが。しかし。彼は周囲から賞賛され評価されたのだろうか?
想像はつくが、こんな場合、周囲の同僚はマネをして彼の境地に達するように努力をするより、自分の無為を棚に上げ、ねたみ、煙たく思う傾向があるのではないか? それが凡人の常である。
なにより、木村の上司の評価が理不尽なものであった。

木村は大正11年(1922年)から15年間に北郷小、細島小、北川小、南方小、岡富小、延岡小、土々呂小、門川小、延岡小、上南方小となんと10校も転勤している。土々呂の3年以外ではほとんど1年。異常である。
どうやら「危険分子」とされて、次々と厄介払いされていたようなのである。ダメ教員、問題教師が1,2年で厄介払いされて転任することは現在でもある。
ダメな管理職は部下の能力を評価できない。あるいは優秀な部下を警戒する。さらには当時は綴方教育には左翼的な、あるいはリベラルな思想の強い影響がある、と思われていたのが主因である。「綴方教師」がすぐに配転される、というのはなにも延岡に限らず全国的な傾向だったらしい。

そういう仕打ちに木村自身悔しい思いをしていたようだ。特に土々呂では1年から3年間クラスを持ち上がり、ようやく素晴らしい成果が出たところである。その子供たちが高学年になって大輪の花を咲かせるのを楽しみにしていたところで、またまた転任である。失望と落胆は大きかった。木村は「自分の血のにじむような苦闘が認められないのは淋しい」ともらしていたようである。

木村が門川に転任になった翌年、「赤い鳥」が廃刊になっている。時局は戦争に突き進んでいく。
ようやく昭和13年になって、木村は土々呂小の実績によって文部省初等教育奨励会から表彰を受けた。
戦後も木村は教壇に立ち続け、組合活動も熱心に取り組んだ。
退職後は椎葉村教育長を勤めた。

私は土々呂小のすぐそばに生まれ土々呂小、土々呂中を出たが、木村のことを聞いたことはない。近年土々呂小校門の看板により、名前は知ったものの、今回菅教授の「綴方教育と赤い鳥」によって遅まきながら認識した次第である。木村の土々呂小3年間の苦闘を土々呂の歴史に残る「光」として記憶に留めていきたい。土々呂の「光」を歴史の闇から掘り起こしてくれた菅邦男教授の仕事にも感謝したい。


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土々呂の子供 トンビと船下ろし

  • 2011/07/12(火) 13:52:11

引き続き土々呂小の綴方である。

木村教諭はいろいろな形式の綴り方を試みている。
詩の形式の綴り方もそのひとつ。
昭和8年に「赤い鳥」に掲載された作品から。

つばき    尋常1年  高見茂夫

うちの、うへには、
つばきが、いっぱいさいてゐる。
はなをとりにいった。
とつてすうた。
あまいかつた。
せつぺせつぺすうた。


※せっぺ---たくさん


なのはな   尋常2年  高橋忠男

なのはな、
はたけにさいたよ。
なのはなの、ねきは、
なしの木があるよ。
なしのはなめが、ふくれてゐる。
なのはなが、むかうにもさいてゐる。


にはとり  尋常1年   秋山栄次

にはとり
こけころとなくよ
大きなこへで
こけくわくわ
こけくわくわ
たまごが一つ
ころげてゐる。


〜よ。という文末の詠嘆が北原白秋風である。当時はこれが流行っていたのではないだろうか。「からたちの花が咲いたよ〜 白い白い花だよ〜」を思い出すのである。
旧仮名遣いで書かれた詩は素朴でもなぜかしらありがたい気がする。秋山君の「にはとり」では特にそうだ。「こけくわくわ」も現代ではちょっと思いつかないオノマトペである。

創作のお話も書かせている。低学年児に創作とはどうなんだろう、と思うが、意外や素敵な作品がある。とても7歳の子供のものとは思えない。高橋君、本当に君が書いたの?

とんびと子供
尋常1年 高橋敏郎

いわしがたくさんとれて、いわしがはまにほしてありました。とんびが北の方からとんできました。さかながぴかんぴかん光つてゐたからほしいと思ひました。とんびはさかなの上にきて、ぴいひよろ、ぴいひよろ、となきました。
子供がとんびを見ました。とんびはひもじくてたまりませんから、又、ぴいひよろ、と鳴きました。そしてわをかいて見せました。子供が「とんびが字をかきよるが」といつてよろこびました。とんびは、子供があつちにいくといいじやがと思ひました。とんびはわをかいて鳴きながら、ぴいひよろ、ぴいひよろ、と、首をうごかして、鳴きました。とんびは、なんぼでもわをかいて鳴きました。子供はとんびが、ひもじいのだらうと思ひました。それでも子供は、さかなのばんをせんならんとぢやから、あつちに行くことはできません。とんびがひもじいだらうと思つて、ねむつたふりをしました。そしたらとんびはおりてきて、一番いわしのわるいのを一ぴき取つて上りました。子供が上を見たら、とんびは、うれしさうに、ぴいひよろ、と鳴いて、北の方へまつていきました.


昔はイワシが大量に取れていた。生では消費しきれないから多くは原料用、飼料用に一旦ゆでて乾燥イワシにしていた。浜にはたくさんのヨシズの上にイワシが干され、トンビやカラスやネコに盗られないように子供たちが石を持って番をさせられた。収穫前の田んぼでもそうだった。高橋君もイワシの番をしていたものだろう。

下:現在の魚干し場。ここは埋立地。昔は浜だった。


下:現在はチリメンが干されている。


下:土々呂漁協近辺は昔からトンビの集結場所。


土々呂は漁港で造船所もある。漁船の新造の時には「船下ろし」がある。進水式である。家の棟上と同じでモチまきをする。我々が子供時分には船下ろしや棟上のモチまきは大行事で大勢の人が詰めかけ死に物狂いでモチを奪い合ったものである。

漁船の場合、漁協のラウドスピーカーが軍艦マーチをガンガン鳴らす間に、大漁旗で満艦飾の新造船が港をぐるぐるまわる。やがて漁協前の岸壁に船が着き、船主家族や親類が船に乗り込み岸壁の人々にモチをまき始める。要領のいい人は漁業用の大きなタモを持ってきている。時々、特別に大きなハマモチを投げると大騒ぎで奪い合い。楽しい思い出だが、私も下の小泉君のようにあまり得意ではなかった。小泉君は2年だがまだカタカナ書き。これは通常の綴り方。

フナオロシ 2年 小泉光明

私ハ 日ヨウ日 二、ハマヘ モチヒラヒ ニ イキマシタ。フネ ガ アタラシイク デキマシタ。フネ ニ ハタ ヲ タテマシタ。アカヤラ アヲヤラ シマス。モチヒラフ 子ドモガ、フネ ニ ノツタリ ヲレタリ シヨツタカラ、フネツクル ダイクサン カラ ノツタリ ヲレタリ スルナラ、モウ モチ ハ マカセンゾウト シカラレマシタ。ソレカラ、モウ ノツタリ ヲレタリ セズ ニ、フネ ニ ノツテ スワツテ ヰマシタ。フネオロシ ガ ハジマリ マシタ。ミンナガ フネ ヲオシテ、フネ ヲ エイヤンドツトコ、エイヤンドツトコ ト、フネヲオロシマシタ。フネガオリマシタラ、水ガドブントアガリマシタ。ソシテウミノ 中ニ ジャブト ハイツテイキマシタ。人ガ ワアトイヒマシタ。ウミ ニ オリマシタ。
モチマキ ガアリマシタ。ソシテ私ガ、モチヲメエタトコロニイキマシタラ、コンダ私ガオツタトコロニマキマシタ。人ガヒロヒマシタ。又モトントコロニ、イキマシタラ、モウモチマキハヤミマシタ。
ソシテ私ハモチハ一ツモヒラヒマセンデシタ。
フネ ハ ウカツテウゴイテヰマス。ハタガウミ ニ ウツツテウツクシデス。ソシテ フネ ハ オキニ イキマシタ。

ただし、小泉君が体験した頃は土々呂には現在のような岸壁はなかったのでどうだろうか。さらに動力船であったかどうかもわからない。造船所は桶河あたりにあったはずである。

下:私の子供時代のおぼろな記憶をたどって描いた。色鮮やかな大漁旗、パチンコ屋のような威勢のいい軍艦マーチでモチひらいの人々の気分はいやがうえにも盛り上がる。


下:昭和30年代の土々呂漁港。妙見の船着場。漁船のデザインも時代とともに大きく変わったはずである。この写真の頃は純木造だったが今ではFRP船が主流。

下:同じ場所で現在の漁船群

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土々呂の子供 ジョログモとカバン

  • 2011/07/11(月) 01:26:27

調べた綴方の中には身の回りの自然や動物を書いたものもある。昔の子供にとって虫は親しい友達、玩具であった。カブトムシやクワガタを好きな子供もいないではないが、一般に今の子供はムシをいやがる、ないしは怖がることが多い。なげかわしいことだ。

虫のなかでもクモは今の子供にはさらに縁遠い。既述のように我々の子供時代まではジョロコブは男子の遊びの重要アイテムだった。関東ではホンチというハエトリグモで遊んだ。
ジョロコブ(ジョロウコブ、ジョロウグモ)というものの実際はコガネグモのこと。ホンチなどというチンケなクモと違ってジョロコブは大きくて美しい。さし渡し7〜8cmはある。


じよろぐものす作り   尋常三年 花岡友美

木の間に作る。

木の間に作る時一つの枝にとまつてねばを流します。いくらでも流します。風が吹いて来てそのねばを向ふの枝にもつて行きます。向ふの枝につかないで、空にすうくしてゐる時もあります。そのねばも一つの枝にひつつくと、そのねばの上をだんだんたずつて、又まん中ごろからねばを流します。その流したねばが又あつちの枝にひつついて、そのねばをたどつていきます。どんくらゐかかるか知りませんが、のちにはりつぱに作り上げます。作り上げるとなかなかりつぱです。くもはうれしいやうに、あつち行き二つち行きしてゐます。
くものねばはなかなかぢやうぶです。ちつとぐらいひつぱつてもきれません。くものねばはひくい所にもはりますが高い所の木のかげなどに作ります。

出来土がつたくものす。

くものすが出来るとふくろをかぶります。そしてその中にはいつてゐます。じよろぐもは、ふくろは持つてゐません
がすのまん中に白いものをはつて、そのまん中にすわります。
くもは、はいなどをまかせやうと思つてなげるとすぐにげて、ふくろの中にかくれます。
じよろぐもは、すぐはしつてきてくるくるとまきます。さうして又前の所にいつて、じつとしてすわつてゐます。すをうごかすと、ちょつと足をうごかしますが、じつとして、すをぴょんぴょんうごかします。
じよろぐもは、すのまん中にをらずに、枝の所におる時があります。僕が此の前見てゐた時、雀からくはれました。
くはれんやうにかくれてゐるのでせう。大きなのは、すぐ見つかるから、早くたべられます。
じよろぐものねばは美しい時があります。雨がふつた時は、つゆがいつぱいぶら下つてゐます。雨のふつた後でお日さんが出ると、ねばがぴかぴか光つていいのです。



またまた染物屋の吉井君が登場する。彼はクラスの全員のカバンを調査している。昭和10年の雑誌「工程」に取り上げられ、児童の綴方を著名文学者が評価する、という趣向であった。吉井君の作品は恐れ多くも井伏鱒二が担当した。

かばん調べ
尋常三年 吉井己義
僕は僕たちの生とのかばんを調べました。
らんどせるを持つてゐる人は二十六人をります。らんどせるの色は土色と黒色があります。土色は二十四人持つてゐます。黒色を持つてゐる人はたつた二人です。黒色のとは、ねだんが高いからすくないのです。
らんどせるは、牛や馬のかはで作つてあります。馬のかははあつくて牛のかははうすいが、牛のかはの方がつよいといひます。そのほか、たんもんがみで作つてあるのがあります。たんもんがみの上にきれをはつてゐるのです。
らんどせるのねだんは、一円二十銭から二円五十銭ぐらひまでです。僕は調べて見てびっくりしました。あんな高いねだんのものを二十四人も持つてゐるのだがと思つたからです。僕は一円から六十銭ぐらひだと思つてゐたからです。
だれかららんどせるをかつても二たかと調べたら、お父さんから買つてもらつた人は八人おります。ねえさんからかつてもらつた人は三人おります。このねえさんたちは、遠い所にはたらきに行つておくつてくれたのです。お母さんからかつてもらつた人は五人です。そして外の人は、しんるゐや、おみやげにもらつた人がをるのです。
僕たちのせきのらんどせるは、どこから来たかといふと、延岡で買つてもらつた人が多くて十四人ゐます。延岡は町ですから、やすいと思つて買ひに行つたのでせう。稲田君は、あぶらつから買つておくつてもらひました。お父さんがはたらきに行つてゐたのです。土々呂で買つた人もおります。大阪から買つてもらつた人が一人おりました。みんながほんとうか、とびっくりしました。大阪のらんどせるもおなじです。そしたらのぽる君が「おれのとは岡山」といひました。みんなは岡山はどこか知らんからぽかつとしてゐました。秋山君は「おりのとは東京からおくつてもらつた」とみんなにをしへてくれました。僕はせきのらんどせるが、あんなに遠い所から来てゐるかとびっくりしました。
本人れに、僕たちのせきのものはざつのうを持つてゐます。僕もざつのうです。ざつのうの色は水色と黒色です。
黒色のざつのうを持つてゐる人は三人です。水色のざつのうを持つてゐる人は十八人です。僕のざつのうは水色のです。
ねだんは三十五銭から五十銭までです。僕のざつのうは三十五銭でした。一年の時から持つてゐます。まだ三年ごろまでは、つかはれます。ざつのうは大がい土々呂の金井や兵どうでかひます。
又本をふろしきに入れてくる人が三人あります。ふろしきに入れてくる人は、手で持つてこなければなりませんからさむいでせう。
僕は三つの内でどれが一番いいかとかんがへます。僕は一年の時にはらんどせるがほしくてたまりませんでした。
はしる時などは、手をいくらふつても、がたがたいはずにはしります。ざつのうは手でもたないとはしることが出来ません。それでも今は、ざつのうがいいと思つてゐます。僕のざつのうは三十五銭ですが一年の時かつてもらつて、まだ三年ごろまではつかはれます。らんどせるはもうわるくなつてゐます。かけるところがきれたりしてゐます。らんどせるは高くてもう上のせきになると、みんなざつのうばかりです。
昔の人は、本を何に入れてもつて行つたかといふと、みんなふろしきにつつんで持つて行つたといふことです。本をひもでむすんでもつて行つた人もおるさうです。


※せき---クラス、学年のことのようだ。
※たんもんがみ---反物紙、今で言うボール紙。

大変よく調べている。形態、材質、価格、買った所、買ってくれた人、などよく行き届いている。3年生の綴方としては出来すぎと言っていいくらいではないだろうか。下手すると今の大学生でもこれより下手なレポートを書きかねない。
現在の小学生はほとんどランドセルで差がないが、このころは如実に貧富の差が現れている。吉井君は安い雑嚢であるがめげていない。さすがお利口な子だ。当時の小学校の一面がしのべる。こんな調査は大人や教師でもしなかっただろう。

ところが肝心の井伏鱒二は採点は甲としつつもなぜか評論を避けているのである。当時は生活綴方が主流だから、こんなレポートのような作品に戸惑ったのかもしれない。そのかわり井伏は以前に延岡を訪れた記憶から、風俗の変遷に驚いている。すなわちあの僻遠の地、土々呂でも今やランドセルがあるのかと。

下:土々呂小卒業生、昭和2年と言うキャプションがある。着物がほとんどだ。残念ながらカバンは写っていない。


下:昭和14年。全員が洋服を着ている。たかだか10年でこんなに変化するのか?上の写真の年代が間違っている可能性もある。


下:昭和13年。全員セーラー服。これは高等科だろうか。

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土々呂の子供  調べた綴方

  • 2011/07/10(日) 01:22:53

「ひかり」や「光」には80年前の土々呂の様子がうかがえる作文が多い。子供の目から見ているので、食い足りないところがあるが、大人はこんなことを文章にはあまり書かないだろうし、日記などで書いたとしてもどこかに死蔵されている。だから土々呂の昔を知るうえではいい資料である。

木村教諭は日常を綴る作文にとどまらず、いろんなものを観察したり、調査したりしてそれをまとめることも要求している。
木村学級の子供たちは木村教諭に鍛えられ、どんどんと作文が上手になってくる。クラスは50名以上いたが、やはり上達の早い子とそうでない子は当然出てくる。例の染物屋の吉井君がクラス一番の優等生だったようだ。彼の作品は菅教授の「生活綴り方と赤い鳥」には何度も取り上げられている。1年生の3学期の時点でこんなに長い土々呂桟橋通のレポートを書いている。当時はカタカナ先習でひらがなは2年からであるが、すでにひらがなと漢字を用いている。


さんばしどほり   一年  吉井己男

さんばし は ととろんうちぢや 一ばん にぎやかです。あたまつみや もあります。それから かなやごふくてん や ひよどごふくてん も あります。まるきばす も あります。おくわしや も あるし たばこやも あるし、りんりきを 入れる こやもあるし、せいまいしよもあつて、いつも米 を ついて ゐます。
私と まゆみくん と たばこ を かいにいつたときです。あたまつみや には、人 が 五六人はいつて なに か がやがや ゆて ゐます。がらすしようじ の にきに いくと、私 と まゆみくん の かほがうつりました。わらひました。あたまつみや の 人 が わらひました。かなやごふくてん の まへ には、をんなの子が きる すかあと や 小さい子供 が かぶる ぼうし や、たんもん やら きもの の きれが 出してあります。ひよど の はう が 大きい が、ここ が にぎやかです。をんな の 人 が かひよります。まちつと くる と お金もち に なるでせう。かなもんや に 出してある はた は いさましく かぜにふかれて ゐました。をんなの人 は わわ さわいで 手 を 出して 見せてください、その きれ は きもの に なりますかと いつてゐます。
まるきばすごや に いこや つて いつてみたら、一だいは、こや に いつてゐました。一だい は のべよか に いちよる のでせう。こや の 中から、一人 の こもり が うた を うたひながら あそんでゐます。こやんなか は あぶら が ながれて によいます。まるきばす は ととろん とで  のべよか に人を つんでいきます。
田中 の おくわしや を 見ると、おいしいやうかんが ひかつてゐます。まんじゆう が つんであります。それから いちんだまや あめや いちんだま の きなこのやうなもの が つけてあります。人 がすとはいつて いつて「おくわしをください」といひました。
「どのおくわしですか」と いひました。「あめをください」「なんせんですか」と いひました。「五せんがた」と いつて かつてかへりました。さかなうる人ぢやつたが、きつと、予供に わけてやります。
たばこや は 田中くんとこです。をとこの人 が たばこかひ に やつてきました。田中くんの をばさん が、でてきて たばこ を 一つ やりました。私たちも一つ かひました。たばこ を こて 叉いきました。りんりきしや を 入れるとこ は からつぷです。せいまいしよ は きかい で かたかた おと を たてます。せいまいしよ の 人 は いそがしいです。いつぺ かぶつて 米をあげたり いれたりします。ぬか が ばらばら とんでゐます。
そして まゆみくん が もうおそくなるから かへる と いつたので わたくし も かへりました。


いくつか現在では意味のとりづらい単語もあるが、読者の想像力に委ねる。

店舗では、「まるきバス」とはバス会社のようである。「かなや呉服店」「兵頭呉服店」は私は知らない。私の子供時分には桟橋どおりには「のもと洋品店」「花岡洋品店」「岡村洋品店」は記憶にある。「田中菓子屋」「田中たばこ店」も知らない。「あたまつみや」はどこだろう?「山田理髪店」だろうか。精米所は宮田精米所だろう。

下:現在の桟橋通り。率直に言ってうらさびれている。それは全国どこの地方商店街も同じ。昭和40年くらいまではたいへん栄えていた。車の普及以前までは土々呂は自転車や徒歩圏内で独立した十分な商圏を持っていた。昔はこの道を200mほど先に行ったところに桟橋があった。


谷君も優等生の一人のようだ。土々呂の谷といったら谷鋳物屋(後年は谷精機)だろうか。谷君は土々呂港に出いりする船の様子を書いている。

みなと
2年 谷勇一

みなとには きせんがまい日 はいつてきます。あさも ひるもばんもはいつてきます。いつてくるときとうだいの こつちで、けむりを むくむく出して みなとに いつてきます。いぬるときは、あすこんとこで、くるつとまわつて、その くるつとまわるときに、こつちから 見てゐると、ひつくりかやるごとします。そして でていきます。
いわしとるふねが、いんできよりました。ぎよさんとつてをるときは、えいやえいや、と、みんなに、きこゆるごつ ゆて いんできます。
きかいせんは いつつもとんとん と いつて、いきます。ほまいせんは 出るときにや ほをおろさんが、ほまいせんが ほを おろしながら、いんできよりました。ひるごろは、ふねは あんまり おりません。私は とをつめて、べんきよ しよりましたら、又えいやえいや つ こゑが しだしました。そとへ でて見ました。いわ
しをたくさん といつてきました。いちばのふえが ぷうと、げんきだして なりました。いわしを かついでさろく人が、一りいんできました。いちばのはうへ はしつていきました。まがりかどで わからんごと なりました。
ひるのきせんが みなとに はいつてきました。こんども、けむりを むくむく出して きました。


下:現在の土々呂港。現在は純漁港である。かつては活発な商港でもあった。


花岡君の作品もよく取り上げられる。彼はお祭りの露店のおもちゃ屋を観察している。これは3年生の時なので漢字が多くなってきた。

おもちやを売つてゐる店          尋三      花岡友美

僕の家のとなりにかまへてゐます。僕の家は神様の近くです.神様のところからおりて来るとすぐ見えます。
だいを四方に置いて板をおいて、その上にきれをしいてゐます。自どう車もき車もあります。刀もあればひかうきもあります。小さい子供のよろこぶやうな物ばかりです。
店の人はおもちやを色々いごかしてみます。さうすると子供はほしがります。おもちやをいぢる子供もゐます.。店の牛をぐつと見てゐるのや、ほしいやうなかほもしてゐます。内のいもうとはおもちや屋が近いので、うれしいかほして行きます。
お客さんは子供たちです。一銭持つて来て、十銭や五銭のひかうき何やをくんないといひます。店屋の人は「これは一銭ではかはれない」といふと、わけがわからないものだから、「くんないくんない」といひます。
この店はなかなかうれました。土々呂にはないもんだからみんなあつまつてきます。この店屋の人は侮年来るもんだから、知つておるからよく売れます。自どう車をうごかしたりすると、僕たちもほしくなります。



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