三川内

  • 2011/03/29(火) 00:42:53

古江からは国道388号、県道43号経由で市棚方面の国道10号に出る。久しぶりに三川内を通る。
三川内も今や延岡市内であるがいかにも山奥の寒村である。
ここらでは茶とシキミが主な産物のようで田もシキミに転換されている。めったに墓参りをしない私でも年に数度はシキミを買うくらいだから需要は多いのだろう。

下:どこもかしこもシキミ畑



川沿いに散在している猫の額ほどの畑が高いネットで囲まれている。北浦はサルの害が多いことは有名である。イノシシだったら電柵のはずである。畑の人に聞いたらシカだという。
イノ、シカ、サルといえば花札みたいで風情がありそうだが、食い意地のはった動物と共に生きねばならぬ山村は大変だ。

下:シカ除けのネット




道路沿いに「下塚庚申塔群」という標識が。読み取れる年銘を見ると明和9年(1772年)とある。老中田沼意次のころだからかなり昔だ。庚申塔は江戸中期から後期のものが多い。当時にこんな山奥にも流行が伝播してのか、と考えると不思議だ。これを彫れる職人がこんな所にいたとは思えないし。
下:庚申塔群の上に見えるのはミツバチのウト


下:同じ様式の青面金剛が3体。

下:三猿はカエルみたいだ

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山間の野仏--舞野

  • 2011/02/18(金) 21:34:19

延岡市西部、舞野町の新しくできた道路の脇に集められた庚申塔と青面金剛。


下:同じく舞野で馬頭観音も見かけた。年銘は昭和17年とあるからわりと新しい。戦時中である。


下:延岡は大師信仰が盛んである。今山の弘法大師像は有名である。あちこちに大師堂もある。これは個人所有のようである。4月の大師祭りの折には幟が上がる。

下:山盛りのご飯が供えられている。

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山間の野仏--三ヶ瀬

  • 2011/02/18(金) 00:32:08

門川町は国道10号線で通り抜けると南北5kmくらいだからものの5、6分で通過できるが東西はけっこう長くて30分くらいはかかる。10号線沿いから奥はほとんど山地である。
その山の中の小さな集落、三ヶ瀬で田んぼの中に野仏を見た。
ここは夏はホタルが出る。まぁ、驚くほどいるというわけではなく、チラホラくらいではあるが、町から見に来る人がけっこういる。ごく狭いスポットに駐車場がないので大変である。



天保十五年(1844年)の青面金剛。なかなか状態がいい。
この山奥にかなり昔から人々の営みがあるということを示すが、さていつまで残ることやら。


下:日向市東郷町に抜ける県道225号線のセメント吹きつけの擁壁で馬頭観音を発見。味気ないコンクリート壁もコケむしてくると味が出ている。年銘は明治四十二年と読めるようだ。


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新しい庚申塔

  • 2011/01/28(金) 00:32:20

庚申塔はおおむね江戸時代にさかのぼる物が多いが、近所で新品の庚申塔を見かけた。
下:新品とはいえ平成二年。20年は経過しているが、江戸時代の庚申塔を見慣れた目には新品同様。(クリックで拡大)


なかなかいい面構えの青面金剛である。手の造形にやや難があるといえばあるが。足元に邪鬼を踏みつけているのも定型。
これには珍しく石工の名前も彫ってある。地元の石材店である。御影石でもなく中国製の量産品でないところがうれしい。石は安山岩のようだ。

下:この青面金剛のすぐ後ろには下半身だけの青面金剛が置いてある。そうとう古そうだ。壊された物を見るにしのびず新しく作ったのかもしれない。



門川町加草にて

より大きな地図で 平成 青面金剛 を表示

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曽木の道祖神

  • 2011/01/27(木) 01:36:50

北方町は現在延岡市に吸収合併されているので、もう東臼杵郡ではない。中心的な集落は曽木である。曽木のはずれに道祖神の吹き溜まりがある。

下:中央は青面金剛、その左右は猿田彦。右の小屋は地蔵堂。右の猿田彦は明治二十五年と年銘があるから明治中期にはまだ猿田彦は人々の心の中に生きていたんだろう。
ここは辻ではなくほとんど袋小路のまったくの村はずれであるからあちこちからここに集められたものである。シキミが生けてあるもののあまり人の参った形跡は見られなかった。


下:青面金剛の年銘は天明四年の甲辰(1784年)。古い割には状態がいい。

下:地蔵堂の中には文化三年丙寅(1806年)の年銘の地蔵、というより四国遍禮供養とあるから大師か。

下:曽木の国道218号線脇にも庚申塔が。これらも道路改良でここに移されたようだ。ここも近隣に人家もなく絶えて参る人もないようだ。

下:右は天保十五年、左は文政十一年。

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小野町の道祖神

  • 2011/01/26(水) 01:57:37

昔からの農村集落には道祖神や地蔵が良く残っている。
延岡市西部の小野(この)地区にもいくつもある。

下:辻にはいくつもの石塔が並ぶ。
左から2番目は猿田彦大神


下:右から3番目の地蔵のレリーフ

下:この辻の奥の祠にも地蔵のレリーフ。
左の碑の年銘は安永元年、1772年。杉田玄白らが「解体新書」を著したころ。240年前。何の碑なのか?


下:別の辻の地蔵と青面金剛。地蔵は首を折られた形跡。右の石碑には「沖田用水路開鑿碑 昭和8年」とある。

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庚申さんの吹き溜まり

  • 2011/01/25(火) 01:42:20

延岡市の西部、五ヶ瀬川沿いに中三輪地区がある。小さい集落のはずれの山のふもとに庚申さんがずらりと並んでいる。
下:あの竹林の下に小さく見える。(クリックで拡大)


下:近づいてみると。

下:そうとう苔むしている。人の通っている形跡が見られない。

下:すべて青面金剛である。

下:地衣類がはびこっている。手入れもされていないしお供えの水も花もない。

下:年銘を見ると、文政四年。1821年。およそ200年前。
文化・文政時代の文化を化政文化という。浮世絵の全盛時代である。江戸文化の爛熟期。我々の持つ江戸時代のイメージはおおむねこの頃。


これらの青面金剛も道路改修にともないあちこちの辻から追い払われてここに集結したものと思われる。
私もいい年だが戦後生まれともなるとさすがに庚申様を祭るといった習慣も記憶もない。地蔵や大師より庚申さんの方がずっと先に忘れられていくようだ。一度失われた慣習は二度と旧に復することはないだろう。
明治新政府は庚申信仰を迷信として排斥しようとしたらしいが、地蔵と違い青面金剛はほとんど首がつながっている。厚い石の板にレリーフとして刻まれているので叩き壊しにくかったのか。

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地蔵の里--宇納間3--庚申塔

  • 2010/12/13(月) 00:59:22

近隣の野仏を見るようになると、青面金剛が結構多いことに気づく。調べてみると道祖神として祭られているのは青面金剛と呼ばれる。インド由来ではなく日本のオリジナルの仏である。
ほとんどがレリーフである。手が6本ありそれぞれの手に持ち物もあるので立体フィギュアの形を石で作ると大変だし、破損しやすい。北郷村小黒木の辻には3体が集結。




風化し破損もあるが、それ以前に彫りが荒っぽい。
左端のものは妙に足が長くシナを作って色っぽい。


下:これも北郷村黒木の国道388号にある三人組。これもあちこちにあったものを道路整備にともないここに集めたものではないだろうか。
色が赤っぽいのはおそらく着彩だ。



下:宇納間地蔵の登り口にもあった。風化と地衣類の付着でよくわからない。


下:長谷野地区。これは状態がいい。持ち物もよくわかる。これを見るともとは赤く着彩されていたようだ。(クリックで拡大)



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