藤の花咲く廃屋

  • 2011/04/30(土) 00:17:40

田舎道を行くとよく廃屋を見かけるようになった。これからの日本は高齢社会がますます進み、人口の急減が予想される訳だからそこらじゅう廃屋だらけになるだろう。若い世代は高齢世代より少ないのだから廃屋の買い手もない。不動産は間違いなく値下がりする。買い手がいるとしたら中国人になるかもしれない。

木城ではおもしろい廃屋を見かけた。ほとんど自然に還りつつある。
下:家屋全体がツルに覆われあばら家の醜態を隠して美しいくらいだ。


下:藤の花が美しい。ここいらに玄関があったものか。

下:ウラから見るととても家とはわからないくらい緑に覆われている。ここまでくると見事。向こうの家も廃屋になっている。ここは交通量の多い広域農道沿いで別に過疎地域ではない。

下:電柱にツルが這い登る。NTTさん、早く処置しないと夏ごろには大変なことになるよ。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

高鍋城-3

  • 2011/04/29(金) 01:34:28

高鍋城は舞鶴公園になっているし、護国神社もあるし舞鶴神社も広い社域を持っている。そこで町内のいろんな記念碑や奉納品が一挙に集うことになる。だから城内はそこらじゅう看板だらけ、という事態になる。ここの城内の看板は癖のある字の浮き彫りばかり。同一の看板屋の仕事と思われるので町内の公共施設の看板を独占受注しているのかも。田舎ではありがち。個人的には好きになれない字である。


上の看板にもあるように寒山拾得を祀る小さな堂もある。

森鴎外の小説に「寒山拾得」という作品があるし、高校の漢文の時間に聞いたことがある程度で寒山が姓で拾得が名前か、くらいの知識しかなかったが、調べると古代中国の伝説上の二人の僧の名前だという。つまり二人分の名前。
下:ホーキを持っているほうが拾得である。たしかに二人とも刀傷?がある。


下左:寒山拾得石像の来歴。(クリック拡大)石仏ではないんじゃないか? 下右:同所にある石像。これも寒山拾得なのかどうかは知らない。でも右の像がホーキを持っているような。


下:資料館そばに鍛冶場が再現されていて二人の刀鍛冶が白装束で刀を打っている。幼い頃となりが鍛冶屋でこんな姿をいつも見ていた。「しばしも休まず槌打つ鍛冶屋〜」という歌そのまんまだった。見る間に鉄片から包丁やハサミが出来上がっていくのを飽きずに眺めていたものだ。


もちろん人形である。

下:最近芸能界にも城マニアが多い。



このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

高鍋城-2

  • 2011/04/28(木) 02:13:53

高鍋城の本丸(政庁)跡は大きな広場になっている。昔の政庁の平面図を示す看板が立っている以外は昔をしのぶよすがはない。

下:本丸平面図(クリック拡大)

この広場の端に護国神社がある。境内に砲弾が奉納されている。日清日露戦争の折には各地の神社に砲弾が奉納された例が多くある。これは日露戦役のもの。奉納の趣旨が記されている。

下:「戦利兵器奉納之記」是明治三七八年役戦利品一ニシテ我ガ武勇ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ大捷ヲ得タル記念物ナリ茲ニ謹ニ之ヲ献シ以って報賽ノ微衷ヲ表シ尚皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル 明治四十年三月 陸軍大臣 寺内正毅

下:裏面に奉納品目録の記載がある。判読しがたい文字もあるが補うと。
戦利品  連発歩兵銃 一、同 銃釼 一、 実包挿弾子 一、 八珊七粍弾 二、 二十一珊鉛套堅鉄弾丸 一
とするとこの砲弾は21cm砲弾ということか。


よその神社でも見かけた。下左:大分県臼杵城護国神社の砲弾(レプリカ) 下右:阿蘇西野宮神社の砲弾。ややもするとインドの聖地にあるリンガと間違えそうな形である。インド人ならナデナデしていくに違いない。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

高鍋城

  • 2011/04/27(水) 01:02:12

高鍋の町は数知れず通過したことはあるが、国道10号線から中に入ることはめったにない。ということで高鍋城に行ってみた。ナビでは高鍋城では出てこず、舞鶴公園で出た。
高鍋藩は石高3万石の小藩だったので城もたいしたことはない。遺構もあまり残っていないのでオッと驚くようなものは何もなかったが、1時間は楽しむことができた。お天気の日曜というのに人出はあまりなかった。これが2・3週間前だと花見客でごった返していただろう。
下:駐車場近辺の石垣がもっともよく城跡を残している。やはり石垣あってのお城だなぁ。ここで期待が増して上に登ると上にはたいしたものはないのである。土塁やかつて建物があったという広場はあるが、素人には何やらわからないので興味がいや増さないのである。

下:本丸に登る石段。小さな石灯籠がいたるところに置いてある。

下:見晴台から高鍋市街を見下ろす。樹木が生い茂りすでに見晴らせなくなっているうえに「台」はどこにもない。ここのベンチに腰掛けて弁当を食っているとやって来た他の人々が「木で景色が見えないじゃないの」と不満をもらしていた。高鍋は内陸と思っていたら意外と海が近い。大津波の射程範囲である。

下:三層櫓跡は梅林になっていて梅の実がたくさんなっていた。その下の石垣がこれ。石を見ると数百年の風化を感じさせないので新しい物かもしれない。立ち入り禁止の無粋な看板が。

下:この石垣のスキマでシマヘビが交尾中。春だね。


下:この石垣前の広場は児童遊園になっているが大木が今しも伐られた切り株があちこちに。広場の日照を確保するためか。まだ内部が空洞化してないのにもったいない。大木は金では買えないのに。それにしてもこの無粋な看板をいつまで放置するつもりだ?切り株に激突して転げるマヌケなウサギのためなのだろうか?


城ファンによる詳しい分析はコチラで。

下:最近芸能界にも城マニアが多い。



このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

高鍋湿原

  • 2011/04/25(月) 13:17:54

漫然と県道24号を走っていたら「高鍋湿原」という案内が現れた。
テレビのローカルニュースでよく聞く湿原である。
さっそく寄ってみることに。無料なのがいい。

全く予備知識がなかったので、意外なロケーションに違和感。
湿原というからには海や川に近い低湿地をイメージしていたのだが、台地の上の小高いところにある。深い谷を挟んで東部と西部に分かれている。順路を行くとまず東部湿原の遊歩道に踏み入れる。ところがどこにも水が見当たらず、単なる野原にしか見えない。あきらかに渇水で干上がっている。遊歩道から見る下の写真でこれが湿原だといわれてもだれも納得しないだろう。


早々に東部湿原を通り抜け谷を渡る橋を渡り西部湿原に。
下:つり橋がかかっている。ハッチョウトンボのことを言いたい気持ちはわからんではないが、なんで行政の発想はこんなにひどいのか。人々は自然を見に来てるんだから人工物は極力目立たぬように控えめにデザインするべき。


下:西部湿原も乾燥がひどい。水溜りだったところにひび割れも見える。


下:ようやく湿原らしい水溜りが現れ納得する。

下:向こうの杉林の上が台地の表面になっており、やや低いここに地下水が沁み出してくる。

下:いたるところに黄色いサワオグルマが咲きほこる。ありきたりの花に見えるが湿原植物という。


妙なところにある湿原だな、とは思っていたが改めてネットで調べると、これは人工の湿原だった。下の谷にダムを作った時、表土をはがされたあと表面になった不透水層の上から地下水が沁み出し湿原化したという。だからこの湿原の歴史はたかだか40年とか。
下の図は調査に基づいたものではなく、私の想像図である。

詳しくはココに写真が多い。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

渇水やまず

  • 2011/04/24(日) 22:16:48

この1週間も雨らしい雨が降らず、渇水が止まない。
山の常緑樹の落葉はいよいよひどい。落葉樹が一斉に緑の若葉を出しているのに比べると対照的。
下:延岡市東海から安井に至る県道212号線沿い。


下:延岡市東海から安井に至る県道212号線沿い。

下:竹林の枯れも目立つ。延岡市安井

下:都農町日豊線沿いの竹林も黄色く変色。田には水が張られているが。

下:都農、川南の県道302号沿いでは竹の花が一斉に咲いている。雨不足のせいなのか、60年に一度の開花期なのか?不吉な前兆ではないことを願うのみ。

下:はじめは去年のススキの穂がまだ残っているのかと思ったが竹の穂なのである。あまりお目にかかれるものではない。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

美々津の町並み

  • 2011/04/24(日) 00:43:47

美々津の伝統的町並みはおなじみなので多言を費やすまでもない。ネット上でもあまたの画像を見ることができる。

ここの古い町並み自体は休日には観光客でごったがえす日田の豆田地区にもひけはとらないと思えるが、いかんせん観光ルートから遠くはずれた孤立した小さな観光地なので観光客はとても少ない。土産物屋もほんのわずか。住民に落ちる金も微々たるものだろう。なんとかしたいものだが。



下:向こうに海軍発祥之地の石碑が見える。


下:電気店もクラシックな店構え。建築自体は新しいようだ。集落ぐるみで町並みの保全に取り組んでいるのがわかる。

下:洋館も2棟ある。これは医院のあと。板壁ペンキ塗りの洋館風建築は医院や官公署に多い。美々津もそうである。

下:ポストのあるのは郵便局跡。きれいに保存されている。

下:町外れで素敵なトタンの家を見た。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

美々津港

  • 2011/04/23(土) 00:32:46

美々津港はかつては高鍋藩の藩政時代より海運の要衝として栄え、上方交易の回船も寄航した。しかし1923年の日豊線開通以後は商港の役目を終えた。耳川流域の木材集散地としても相次ぐダムの建設で筏の流下ができなくなり廃れた。現在は小さな漁港にすぎない。
下:昔の写真(大正期)を見ると船の帆柱が林立していて殷賑を極めていたことがわかる。美々津の伝統的町並みを作った昔の繁栄もうなづける。左端の森が立磐神社のようだ。これは上流方を望んだもの。現在は神社のすぐ上に10号線の耳川橋梁がある。昔はそのずっと上まで泊地だったようだ。


下:権現崎の下に千石船が浮かぶ。手前は筏流しで耳川流域から集められた材木。権現崎には松の木が見られる。いつしかなくなったものだろう。

下:別バージョンで権現崎。松林がよりはっきり確認できる。


下:現在の様子。対岸は権現崎。

下:港から耳川上流方を望む。橋は国道10号線。

下:岸壁の一角、立磐神社そばに日本海軍発祥之地、の碑が建っている。神武東征の故事に由来する。内閣総理大臣米内光正書とある。詳しくはよそのサイトで。

下:立磐神社。一番上の写真を見るとかつてはこの広い駐車場は水面だったようだ。美々津の伝統的町並みを観光する車はここに駐車できる。

下:昔の立磐神社

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

美々津 権現崎 港柱神社

  • 2011/04/22(金) 00:13:44

下:耳川の河口にある水静かな美々津港。対岸の山が権現崎。小さな白い堂の上の森の中に港柱神社がある。
手前の船はこちら側の岸にある立磐神社の大祭(11月)の飾りつけをしている。2007年撮影。



下:これは4年前の港柱神社の写真。鬱蒼たる木立の中にある。


下:これが今の写真。背後の木々が伐られてしまった。周囲には切り株や丸太がゴロゴロ


下:港柱神社由来


下:神社の下にある堂


下:堂の中には極彩色の不動が

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

美々津 権現崎 牧水歌碑

  • 2011/04/21(木) 02:20:04

美々津の権現崎はこんもりとした照葉樹林に覆われている。
遠目には渇水による葉の変色や落葉はそれほどでもないが、急斜面ではやはり茶色になっている木も見られる。
下:林内はやはり落ち葉が多い。林内も明るい。



下:林内の道は時期によってはこのようなコケのじゅうたんになるのだが。
乾燥の極にある今ではとても望めない。これは数年前の写真。



下:岬の突端の一角に牧水の歌碑が立っている。左端

下:美々津権現崎にて 「海よかげれ水平線の黝(くろ)みより雲よい出で来て海わたれかし」牧水

まったく黒雲湧き出でて一雨降らせてくれ、と言いたくなる。
牧水生家は耳川を10kmくらい遡ったところにある。牧水の若い時代、鉄道はまだ開通していないから船が交通手段だったころには美々津は交通の要衝だったはず。


下:牧水かるたの中にもこの歌が。

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る


ul class= name=%edit_name tabindex=%url