昔は松の木 霧島山・構口

  • 2011/06/29(水) 01:02:27

前回エントリの続き


霧島神社のある山は土々呂では霧島山と呼ばれる。あの有名な国立公園の霧島とまぎらわしい。あの霧島に比べると月とすっぽんくらいに小さな山で標高わずかに50m。

下:霧島神社社殿


霧島神社から山頂まで深い森の中に道がある。
山頂にも小さな祠がある。近年では山頂は木が茂っていてあまり見晴らしはきかない。

下:霧島山頂から土々呂湾を望む。


現在は神社の森の例にもれず、おおむね照葉樹林におおわれている。しかし、昔の写真を見ると、山頂には松の巨木が見られるのである。写真がオボロであるが、以下のように。

下:土々呂駅近辺。左端が霧島山。駅前は畑なのでこれも鉄道開通後、間もないころか。


下:大正12年、日豊線開通直後の土々呂駅。正面の霧島山頂にある2本の松は「よろい松、かぶと松」と名がついていた。東側斜面にも松の木が生えている。


南延岡駅近辺は構口(かまえぐち)と言われる。最近、ここは「邪馬台国の構口説」で話題になった。が常識的に考えてどうなんだろう? 後ろが愛宕山で後背地がなく狭いところだし、2000年前にはあそこらまで海だったんではないか?

下:昔の構口の写真を見ると、ここにも松の巨木が。


下:現在の構口。旧国道沿い。昔の面影はうかがえない。


下:美々津近辺の街道も松並木。おそらく日豊線開通以前ではないだろうか。昔の旅人はこんな松並木の中を徒歩で旅した。さぞ美しかっただろう。さぞくたびれただろうが。




下:松並木は今ではあまり見ることができないが、久住高原にほんの2kmくらい残っている。広重の浮世絵の中に松並木の街道を見ることができるが、ここではそのような昔の街道の風情をしのぶことができる。
しかし、マツクイムシはここにも魔の手を伸ばしているのでいつまで見られることやら。

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昔は松の木 御番所

  • 2011/06/28(火) 00:59:26

私の生家から半径100m以内のごくせまい範囲の話で恐縮である。

昔の写真を見ていたら「御番所の松」があった。御番所とは現在の延岡市土々呂1丁目(東浜)の南端の地名である。せいぜい半径50m以内のとても狭い地域である。柳田国男は日本の特徴として地名が細分化され狭い面積の割には過剰に多くなった、と言っているがまったくだ。

下:赤丸で囲んだところが御番所。地図は戦前のもの。(クリック拡大)
現国道10号線はなく、当時の国道は御番所から鉄道を越えて内陸に入り伊形を経由する。


御番所の由来はその名のとおり、昔、藩政時代に「番所」が置かれていたことによる。街道の関所ではなく、港に入港する船の見張りが主だったらしい。我々が子供のころまではこの地名は使われていたが、現在ではたぶん死語となっている。

下:御番所の松(クリックで拡大)


人力車と思しきが見えるが、鉄道の腕木信号があるから日豊線開通後である。柵の上に鉄道がある。向こうに上がっていく坂道は流川につながっているはず。写真の右に御番所踏み切りがある。この道は旧国道である。

鉄道に覆いかぶさるように松の巨木がある。
私はこの松は見たことがない。いつなくなったものだろう。
私の家族や親戚は戦前から戦後にかけては満州で暮らしていた。母は、戦後引き揚げて土々呂に久しぶりにもどったら、あちこちの松の大木がなくなっていて故郷ではないような気がしてさびしかった、と言っていた。

終戦直後の昭和20年9月の枕崎台風は上陸時になんと916.6hPaもあったという猛烈な台風で、宮崎県の死者なんと82人。敗戦の混乱で被害の写真や記録があまり残っていないが、おそらくこの台風が風光明媚だった土々呂の松を根こそぎ倒したものだろう。

下:昭和12年。土々呂小ウラの山から土々呂湾を見下ろす。海水浴場の上には松林がある。いずれもかなりの大木。これも枕崎台風で倒れたと思われる。(クリック拡大)


下:昭和30年代の写真。左端は土々呂小学校。10号線の姿がすでにあるので昭和35年くらいか。これで見ると2本の松の大木が見える。上の写真の松林から残ったもの。
10号線の左の松は驚くように高く、今なら保存巨樹に選定されるような巨木。昭和40年代まで残っていたがマツクイムシにやられ伐採された。右側の松は私は見ているはずだが記憶がない。よく見るとこの木は10号線の中に生えているようだ。おそらく10号線が全通するときには伐られたのではないか。



これらの松はおそらく江戸時代に街道沿いに植えられ、ずっと延岡市街まで続いていたはずである。昔の日本の景観を特徴づけるのは松の木であった。いまやそれは杉の造林である。松の景観を懐かしがって、杉の味気なさを嘆くのは時代錯誤なんだろうか?そんなことはあるまい。絶対にスギはつまらない。花粉症の原因でなくたってスギは撲滅したい、と個人的には願望している。

私の父方の祖父は明治時代の馬車引き、現在で言えばトラックドライバー、で槇峰鉱山の銅を土々呂の港まで運んでいたという。いつも通りがかるこの場所は松原越しに穏やかな入り江が見通せる素晴らしい景色だったので、ここに居を定めた、と聞いている。日豊線の築堤も国道10号線もなかったころだからそれはのどかで美しい浜だっただろう。

下:同じ場所、同じ時代。土々呂小のグラウンドで児童が輪になっている。左端は上の写真と同じ松林。
右端の山越しにちょっとだけ松の木の枝が見えるのでこのころまでは御番所の松はあったことがわかる。(クリック拡大)


下:現在の御番所踏み切り近辺。山は一ヶ岡団地で造成され低くなるし、日豊線の山側を切り取って県道が通ったので昔とはまるっきり景観が異なる。鉄道と県道にはさまれた小さな丘が見えるがあの少し上あたりにあの松の大木があったはずである。


下:「御番所」の由緒ある地名は踏切名にのみその名を残している。


実は国道10号線ができる前、御番所踏切下に私の母方の祖父の屋敷があった。海水浴場の浜に面し、とても景色がよかったという。しかし、戦後の台風の高波で流されてしまった。年代からすると昭和26年のルース台風あたりか。この台風、細島で風速69mを記録する猛烈なものであった。今こんなのがきたら高台の風当たり良好な我が家は確実に吹き飛ぶ。
その祖父の家は再建されず、敷地は10号線の下になってしまった。私の生まれる以前なのでこの屋敷は見たことがない。

下:祖父の屋敷の庭から土々呂湾を望む。昭和26年頃撮影。湾中央の防波堤はなく、砂浜は海水浴場から土々呂桟橋までつながっていた。

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土々呂のこども 木村寿の綴り方指導-5

  • 2011/06/26(日) 00:20:49

80年前の土々呂の子供たちは何して遊んでいたのか?
夏はもちろん「ミズアベ」がメインであるが、他のジャンルもある。

1931年に満州事変が起こり、日中は15年戦争に突入した。
この頃の日本の敵は米英ではなくシナである。

   ヨシナガ タミオ

キノ ニチヨビ センソウゴツコ オ シテ アソビマシタ。
シナジン ヲ コロシマシタ。
シナグン ガ シトリ ノコリマシタ。 シリカラゲテ ニゲマシタ。
シナグン シトリノツ ヲ ドンドン オヒカケ テ ユキマシタ。
シトリ モ コロサレマシタ。シナグン ハ ミンナ シニマシタ。
ソノ アト デ ベント クマシタ。 ベント クテシモテ ヤメマシタ。
バンザイ ト ユマシタ。 テンノウヘイカ バンザイ ト ユマシタ。
コゴヘイカ バンザイ ト ユマシタ。
ソシテ センソウコツコ ハ モウヤマリマシタ。


今聞いたらギョッとするような遊びであるが、現代も似たようなもの。ニホングンがスーパー戦隊でシナグンが怪人もしくは怪獣というところか。

私はいまだに山で見事なジョロコブを見つけワクワクするという夢を見ることがある。土々呂近辺でジョロコブ(コブとはクモのこと)というのはジョロウグモではなくコガネグモのことである。
棒に2匹を乗せて喧嘩させる。足が長く尻の小さいものが姿が美しく上物とされたものだ。クモの中でもジョロコブは本当に美しい、と思っていたものだが、クモをペットとして飼ったことのない世代には理解できないだろう。私もヌストコブ(アシダカグモ)はキライである。益虫なんだが。


秋山君はコブをコビと言っている。土々呂では単語の語尾がややもするとイ段に転訛する傾向があるので子供にはそう聞こえていたのだろう。

   アキヤマ エイジ

キノ ハ シゲチヤン ト アソビマシタ。
ジヨヤマ ニ アガツテ キイチゴ ヲ トツテ タベマシタ。
ヲレテ コビ ヲ モツテ カエリマシタ。
ニヒキ トツテ カヘリマシタ。 ケンクワ ヲ サセマシタ。
アカシ ガ カチマシタ。
チヒサイ ジヨロコビ ヲ トツテ マタ ケンクワ ヲ サセマシタ。
ソシタラ ミソツパラ ガ デマシタ。
ケンクワ ヲ サセテ アソビ ニ イキマシタ。
アソビ カラ カヘツテ ベンキヨウ ヲ シマシタ。
ソシテ アトカラ ゴハン ヲ タベマシタ。

昔はどこでもホタルはいたものだが、伊形には川がいくつかあり、ホタルはウジャウジャいた。
ホタル捕りを書いた久峩君は伊形のお寺の子供かもしれない。久峩姓は珍しい。
 
   久峩 正巳

ボク ノ ウチ ノ キンジヨ ニハ イケ ガ アリマス。
ユフガタ ニ ナル ト トモダチ ガ タクサン キテ ホタルコイ ト ヨブ コエガ シマス。
ホホ ホタルコイ。 アチノミザ ニガイゾ。 コチ ノ ミザア アマイゾ。
ヒチヤク モツテコイ クンデヤロ ト オラビマス。
ソオスルト ホタル ハ ヒ ヲ アカシテ モオテ キマス。
ヤマ ノ ニキカラ パラパラ パラ ヒ ヲ アカシテ トンデ キマス。
ホタル ガ トンデ クルト イケ ノ ナカニ カゲ ガ ウツリマス。
イケノ ホタル ガ トンデ イクト コドモ ガ タケンシバ デ オサエマシタ。




下:昭和30年代の土々呂海水浴場。浜が広い。夏ではないのでさびしい。向こうに漁船を浜から海に降ろす人々。えらく大勢いる。隣近所こぞって加勢したものだろう。


海岸の砂浜は季節を問わず格好の遊び場だった。砂浜の遊びもいろいろとあった。木村君のように砂浜に落とし穴を作って遊んだりしたものである。

  キムラ タカシ 

ハマデ アソンダ。
ズナ デ アソビマシタ。
コドモ ガ ワナ ニ カカリマシタ
コドモ ガ ケンクワ シマシタ。
オレ ハ トマツ ヨシオ ト アソビマシタ。
ヨシオ ガ ハマ デ ケンクワ オ シテ コドモ ガ ワナ ニ カカリマシタ。
コドモ ガ ワナ ニ カカリ マシタ。 コドモ ガ ナキマシタ。
ソシテ コドモ ハ ワナ ヲ イヅメマシタ。


※「イズメル」はウズメル。「ズナ」なスナ。

※「ホタル捕り」の久峩君は一人称を「ボク」と書いていて、木村君は自分を「オレ」と書いている。1年生が「ワタクシ」と言っているのも違和感があるからこれらの方が自然か。
しかし「オレ」も土々呂風にイ段に転訛して「オリ」の方が普通だった。


下:木村教諭の挿絵。戦闘機が複葉機、昭和初期風である。


私が子供の頃、土々呂の桟橋通りウラに土々呂劇場があった。テレビ普及以前には週代わりで映画が上映され賑わった。粗末な小屋で木の長いすが並び、便所の匂いが立ち込めていたが子供には夢の殿堂であった。幼心に赤銅鈴之助とか美空ひばりの股旅物とか見た記憶がある。
1960年代になりテレビが普及すると同時に潰れた。
吉井君の見たカツドウは土々呂劇場であったものだろう。

  ヨシイ ミヨシ

キノ バン カツド ニ イキマシタ。
コオコク ミマシタ。ニクダンサンユウシ モ アリマシタ。
ハジマルト アメリカ ノ ヒコキ ガ トンデ デタ。
一バリキ ノ ハ イキマセンデシタ。
アトカラ 一バリキ ノツ ハ イキダシマシタ。
マタ 一バリキ ガ オレダシマシタ。
ヒコキ ワ タクサン トンデ ユク。
ツイラク シタリ アガツタリ ラカガサ ワ ヒコキ ニ ヒツパツテ イタリ シマス。
アメリカ ノ タイサ ハ ウレシク ナツテ ヰマシタ。


本編上映前にはニュース映画があった。どうやらコマーシャルもあったみたいだ。それは今と同じだ。本編はどうやら洋邦二本立てのようである。「肉弾三勇士」はまさにこの年、1932年(昭和7年)に上海戦線での出来事であるからきわめてホットな映画である。

※吉井君の映画の説明は全く意味をなしていないが、1年生だから無理もない。彼の言う1馬力とは単発機のことではないか?ともかく飛行機の登場する戦争映画ではないだろうか?

※以上は尋常1年次のころの木村学級の文集「ヒカリ」から取ったものである。その後、2年次では「ひかり」三年次では「光」と文集は大量に出された。
延岡図書館には「ヒカリ」の一部しかないので、菅教授の「生活綴方と赤い鳥」より「ひかり」「光」の作品の一部を転載しているので、後日のエントリを参照していただきたい。


下:夏になると防水カメラが欲しくなるが、タフさでは定評あるオリンパスの防水カメラも今やなんと1万1000円ほどで手にいる時代になっている。


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土々呂のこども 木村寿の綴り方指導-4

  • 2011/06/25(土) 00:39:07

下:土々呂海浜公園。埋め立てで海水面が大幅に減少。下の写真と比べると椿山の植生の変化もわかる。

下:昭和30年代の土々呂海水浴場



引き続き、土々呂小1年1組文集「ヒカリ」から、「ミズアベ」の作文を。(1932年。昭和7年)

   キノ      ヨネザワ マサトシ

キノ ミズ アベマシタ。 クロダ ガ エ アベマセンデシタ。
クロダ ガ イヤ ト ナキマス。 マタ イツテ タマナゲ オ シマシタ。
モ アガリマシタ。 デノゴイ オ クロダ ガ モツテ イマス。
ミテイタラ マチノ オジサン ガ ミズアベ ニ キマシタ。
ソレカラ モ アガリマシタ。
ジドサ ガ ネンベン モ トマリ マシタ。
ミンナ ミズアベ ニ イキマス。
マチ ノ オジサン モ カエリマシタ。
ミズアベ モ ミンナ カエリマシタ。
ワタクシ モ ウチ ニ カエリマシタ。
モ バン ニ ナツタ カラ ゴハン ヲ タベマシタ。
ウチ ノ マエ ニ モ ホタル ガ タクサン ニ ナリマシタ。
ホタル トリ ニ イキマシタ。 イツパイ トツテ カヘリマス。


※木村教諭は原則的に子供の文を誤りをふくめそのまま転記しているようだ。カッコ内で訂正を記入しているところもある。オールカタカナなので分かち書きが徹底している。

※「ジドサ」とは自動車である。おそらくバスのことか。
延岡市内から泳ぎに来る人が多かった。夏には海水浴場前に鉄道の臨時駅が開業していたものであるが、戦前にはどうなんだろうか?

※友達を苗字で呼んでいるのが面白い。我々の子供の頃にもそんな傾向はあった。すなわち幼なじみではなく、学校で知り合ったクラスメートは男女を問わずもっぱら苗字であった。おそらく教師が子供を苗字で呼んでいたからではないか。今では教師は下の名前で呼ぶから、子供たちも下の名前で呼び合う。このほうが苗字より自然である。

キムラ タカシ

ワタクシ ワ ミヅ ヲ アベマシタ。オモシロカツタ。
ワタクシ ワ ハシカラ トビコミマシタ。
ドブン ト トビコンデ オモシロカツタ。
ソシタラ フケカツタ。 ワタクシ ワ オヨギマシタ。
フネ カラ トビクダリ オヨイダリ イワ カラ イワ カラ
トビクダリ トビクンデ スンダリ オヨイダリ マタ スンダリシマシタ。
ワタクシ ワ サムク ナリマシタ。ワタクシ ワ アガリマシタ。
ソシテ ワタクシ ワ コイズミ ミツアキ カラ テノグイ ヲ カリマシタ。
ソシテ ヂキ ヒヤガリマシタ。
ワタクシ ワ サムカツタ カラ キモン ヲ キリマシタ。
ワタクシ ワ インデ ミズ ヲ カブリマシタ。
マタ テノグイ デ フキマシタ。


下:この作文に木村教諭が評を付けている。やさしそうな先生である。

タカシクン ハ ミズアベ ガ ウマイデスネ。 トビカタ モ ウマイデスネ。
スムコト モ ウマイ。 オヨギマワルコトモ ナカナカ ウマイノデスネ。
ソレデスカラ ミズアベノコトヲ カクコト モ ウマイノデスネ。


※この作文の舞台は海水浴場ではなく、三松公園近辺ではないだろうか。橋とは妙見橋である。土々呂にはあそこにしか橋はない。妙見橋のそばの洲ノ鼻には小泉姓が多い。

※「トビクダリ」は「飛び下り」ではなく「飛び込んだり」である。

※土々呂の子の「ミズアベ」には頻繁に「スミマシタ」が出てくる。これは「澄む」という動詞で、潜る、という意味である。
我々の頃も、低学年時は浅場でパチャパチャしているが、高学年になると、磯場で水中メガネで素もぐりをするのが「ミズアベ」になったものだ。いったんその味を覚えるともう、砂浜には戻れない。昭和30年代でも土々呂の海はけっこうキレイだった。昭和初期では透明度はとても高かったに違いない。幸せな子供たちだ。

下:昭和30年代の土々呂の子供たち。私もいる。


※私の1・2年生くらいの夏休みの絵日記には「ミズアベ」の話ばかり出てくるのであるが、探したけれど見当たらないので、見つかったらここに追加したいと思う。

下:夏になると防水カメラが欲しくなるが、タフさでは定評あるオリンパスの防水カメラも今やなんと1万1000円ほどで手にいる時代になっている。

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土々呂のこども 木村寿の綴り方指導-3

  • 2011/06/23(木) 01:11:27

土々呂小の木村寿の綴り方冊子は一年次が「ヒカリ」、クラスを持ち上がって二年次が「ひかり」、さらに三年次が「光」と同じタイトルで字が変わるという、面白い構成である。残念ながら延岡市図書館には「ヒカリ」の一部しかない。
2年の遠足での13人による連作が読んでみたかったのであるが。
木村教諭は大変勤勉だったようで、3年間で22冊もの文集を出している。自分でガリ版印刷だから大変である。子供たちには全員配られているはずだから、土々呂のあちこちのお宅の押入れに残存しているはずである。

以下は「ヒカリ」から7月になって長い文が書けるようになった頃の作品。

下:戦前の土々呂。霧島山のふもとの切通しがまだ白いところを見ると日豊線開通からそんなに年数がたっていないかも。現在は海岸の埋め立てが進んでいるので地形がかなり異なる。
中央が妙見橋。木造である。土々呂には川がないので橋はこれしかない。橋の東詰めに小さな山があり、石段をちょっと登ると小さな社がある。


下:現在の妙見橋とその向こうの小さな山が妙見様の森。


下:妙見様。ごく小さな社である。


ヨンベ   吉井 巳男

キノ バン ニ ミヨウケンサマ ニ マイル トキ ニ ミヨケンバシ ヲ
トホル トキ ニ ミヨウケンサマ ノ モリ ニ アカイ ヒ ガ モエテ アリマス。
ムコ ニ イクト マツチ デ キ ニ ヒ ヲ モヤシテ ヰマシタ。
ロソク ヲ ニ テ ダン ニ タテテアリマス。
ダン ニ アガツテ ミタラ キ ガ タクサン デ キ ガ マツクロク ミエマシタ。
アガツテ カミサマ ニ メリマシタ。 ダンカラ オレマシタ。
カヘルガケ ニハ ヒト ガ タクサン ハシ ヲ トホツテ ヰマス。
ムコ ノ ハウ デ ヒト ガ オランダリ シマス。
ハシノ ウヘ ハ スズシイカゼ ガ フイ テ キマス。モウ イニマシタ。
インダラ スズシイ カゼ ガ フイ テ ヰマス。
タイヘン キモチ ガ ヨク ナリマシタ。マタ ソト デ アソビマシタ。
スズシイ カゼ ガ フイ テ ヒト ガ ソト デ スズンデイマス。
タイヘン スズシイ。



私は妙見社から遠くに住んでいたので、7月にここに参る行事があったことは知らない。しかし、梅雨も明けた暑い夏の宵に、橋(川ではなく海の入り江)のたもとの小山にある小さな社に家族で参る涼しげな様子がよくうかがえる。昔は土々呂の人々はこぞって参ったものだろう。
満州事変はその前年である。戦争の足音は迫りつつあるが土々呂の生活は平和で楽しげである。



タハカシ トシロウ

ニチヨン トキ ベンキヨ ヲ シマシタ。
ベンキヨ ヲ シテシマウ ト アカチヤン ヲ カライマシタ。
オカアサン ガ センタク ヲ シテヰマスト アカチヤン ガ ナキダシマシタ。
ワタクシ ガ オムイ ト イツテ オカアサン ガ オロシテ クレマシタ。
アカチヤン ガ ナクカラ オカアサン ガ ヲチチ ヲ ノマセマスト
アカチヤン ガ ネムリマシタ。
アカチヤン ガ ネムルト オカアサン ガ ネドコ ヲ ヒキマシタ。
ソシテ アカチヤン ヲ ネセマシタ。
コンドハ ネエサン ガ インデキマシタ。
ネエサン ガ ゴハン ヲ タベテシマウト ベンキヨ ヲ シマシタ。


戦前の男尊女卑の時代であるが、男の子も赤ちゃんをおぶって守をしていたのが意外。さらに土々呂みたいな田舎でも子供が家でしっかり勉強をしているのも意外。
しかし、考えてみると私はこの世代の30年ほどしか隔たってない。小学1,2年生の生活は私のころとさして変わらないのかもしれない。私が小学生のころから日本の高度経済成長がはじまり、その後あっというまに生活のようすは激変した。

私もまったく同じであったが土々呂の子供にとっては海で遊ぶのが夏の生活のすべてであった。我々は「ミズアベ」と呼んでいた。この冊子にはミズアベがよく出てくる。

下:土々呂海水浴場。昭和初期なのでまさにこの綴方の書かれた頃。昔から海水浴場は市の管理であった。椿山(洋望崎)の右から左に書かれているアサヒビールの看板や、わらぶき屋根が見えなかったら、私が子供の頃の昭和30年代と変わらぬ光景。これには一基しか見当たらないが、私が子供の頃は飛び込み台が二基くらい設置された。



  カイスイヨク      斉藤 一

ウチ ノ ネエチヤン ト カイスイヨクジヨウ ニ ミズアベニ イキマシタ。
ヒト ガ タクサン キテイマス。 ズツト ムコ ニ アカイウキ ガ ウカツテ ヰマス。
ミズ ニ トビコンデ アスコ ニ イテ オヨグ ト ウキ ガ カヤツタリスル。
ソシテ トビダイ カラ トビコンダリ シマシタ。
フケトコカ ト オモツテ タツタラ フケカツタ。
ソシタラ ネチヤン ガ ウダイタ カラ ヲボクレマセンデシタ。
コンダ フネ ニ オヨイデ イテ サカツパチ トビコミ マシタ。
ソシテ ヲヨイデ ヲカ ニ アガツタラ ウミヲ ミタラ 
ナミ ガ ピカピカ シテ メ ガ マバシカツタ。
マタ トビダイ ニ オヨイデ イテ マタ トビクダリ アガツタリ シテ
オモシロイカツタ。
オヨイダリ スンダリ シテ アチナルト マタ トビコンデ オモシロイ。
アンマリ オヨイダカラ インデ テヌグイ デ フイテ キモノ ヲ キカエマシタ。


方言解説
※「ウダク」抱く
※「ヲボクレル」木村先生は「オボクレル」と小さく注をつけておられる。おぼれる、ということ。
※「サカッパチ」 逆さに、ということ。

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土々呂のこども 木村寿の綴り方指導-2

  • 2011/06/21(火) 01:58:23

土々呂小、木村寿教諭の綴り方文集「ヒカリ」に登場する1年生たちは大正14年生の方々である。今生きておられれば86歳くらいか。終戦時に20歳くらいなので戦死された方も多いのでは。

当時は6,7歳であるから、書いていることは実にかわいい。
このくらいの年齢の子供の書くことには虚飾や虚構がない。


吉井君の家では鯉幟を売っている。染物屋だったようだ。
現在の大瀬町の吉井染工場と関係あるのだろうか?

ヨシイ ミヨシ

ウチニハ コイヲ ウツテヰマス。
コイノボリハ ダンダンウレマス。
6センノツモ アリマス。
5ジッセンノツモ アリマス。
7ジッセンノツモ アリマス。
1エン5ジッセンノツモ アリマス。
ソレカラ クロゴイモ アリマス。
オホキナクロゴイモ アリマス。


岡崎君の家は漁師かな?岡崎とは昔の土々呂ではあまり聞かない姓であるが。

オカザキ タダヲ

トトロノミナトニ キセンガキマス。
ホカキブネガキマス。
キセンノナカカラ ヒトガデテキマス。
フネガイオヲ トリマシタ。
オトサンガイオヲ インデタベマシタ。


※ホカキブネとは当然ながら帆掛け舟である。
子供の耳にはそう聞こえるのだ。大人もそう発音していたものだろう。
※昔はサカナなんて言わなかった。ウオでもなく、イオないしはイヨであった。
※「インデ」も最近死語になりつつある。今の子供は知らない。「去ぬ・イヌ」とはれっきとした古語である。「インデ」は「帰って」となる。



皆さん、これを解読できますか?

ハナオカ トモミ

ウチノオカサンガ クワヲクワセテイマシタ。
トモミガ クワヲクワセテイマシタ。
ウチノトモミニ クワヲキツテヤリマシタ。
トモミガ ヨロコビマシタ。
トモミハ ヂコモンニナリマシタ。


省略が多く、主語が判然としないので相当にイマジネーションを働かせないと文意が取りかねる文であるが、いったんその情景が目に浮かべば心あたたまる内容ではある。私の推測はこうである。

花岡君宅では養蚕をしてるようだ。
トモミ少年はお父さんといっしょにカイコにの世話をしている。トモミ君はカイコにクワをあげるのが楽しい。
お手伝いしたら、お父さんに「トモミはお利口だねぇ」とほめられたものだろう。
昔はリコモン(ヂコモン)といったものである。私はいまだにテレビのリモコンを探すときには「リコモーン、リコモンはどこだ?」と探している。最近のリモコンはボタンが実にたくさんあって多機能、お利口なのである。



スダ ススミ

ムギガ ハエテイマス。
オカサンガ ムギカリニイク。
ムギガ タクサンハエテイマス。
ムギガ タクサンウレテイマス。
オカサンガ ムギヲカテデカエッテキマシタ。


※「カテデ」というのは「かたいで」すなわち「かついで」のことである。上の写真のように土々呂海水浴場裏の山は段々畑であった。冬から夏にかけては麦、夏から冬にかけてはサツマイモの畑である。半農半漁のススミ君のウチではお父さんが漁に出て、お母さんはウラの山で畑仕事。お母さんが黄金色の麦を刈って帰ってくる。なんてのどかで、平和な光景だろう。実は上の写真の中にススミ君の家が写っている。まだご存命である。写真は昭和35年ころか。

ヨシナガ タミヲ

ダリアガアリマス。
キナイロモアリマス。
アカイロモアリマス。
シロイロモアリマス。
ハワアオアオシテヰマス。


※鮮やかな彩りが目に浮かぶようだ。そういえば昔は黄色をキナといっていたなぁ。

イワタニ ノボル

キシヤガ イツモトル。
ヒトガノテイル。
バンザイスル。
キシヤノヒトガ バンザイスル。


今や蒸気機関車が走れば大イベントであるが、土々呂小の前には日豊線があり、一日中汽車が走っていた。
昔も男の子は汽車が大好きだった。私も小学1年のころは絵描帳には機関車の絵ばかりだった。







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土々呂のこども 木村寿の綴り方指導

  • 2011/06/20(月) 00:46:47

6月1日のエントリで土々呂小学校の木村寿教諭について記した。木村は綴り方教育で名を馳せた人物である。
地元紙の夕刊デイリーのココココに木村の仕事の概略があるので読んでいただきたい。

下:土々呂小校門には木村寿についての看板が設置してある。


ネット上では木村の生涯についての情報がないので生没年がわかならいが、明治38年生の私の父と同世代くらいか。
昭和7年(1932年)に土々呂小に赴任し生活綴方指導で手腕を発揮し、その活動は「赤い鳥」にも取り上げられ全国的にも有名になった。
※「赤い鳥」関連で土々呂小からの投稿をチェックしたので下端、文末を参照。

今から見ると木村はきわめて優れた教師であるが、上からの覚えは必ずしも良くなく、頻繁に転勤させれている。土々呂には3年間いて、同じメンバーのクラスを1年から3年まで持ち上がりで担任し、おそらく月ごとにくらいの頻度でガリ版刷り文集を出している。大変な仕事量である。

クラスは男子のみ50名のクラスである。生徒の名前を見ると私の生まれた場所だけに、近所の方で聞いたことのある名前もある。現在80歳過ぎの方々だから戦死してなければご存命の方もいるはずだ。

下:1年生の時の文集はタイトルが「ヒカリ」である。表紙絵は木村によると思われる。


私は幼稚園や保育園には行ってないので土々呂小学校に上がるときには読み書きはできなかった。父が入学式前にひらがなで自分の名前が書けるように教えてくれたおぼえがある。父は教員であり、母も教員経験者であったが子供に早期教育をするというようなことは無かった時代である。
ましてや昭和初期の時代では、子供たちは入学後にはじめてカタカナを習得したものだろう。

木村が最初の文集の巻末に簡単な編集後記を書いている。この文集は子供たちが入学後60日後に発行されている。作文の日付を見ると5月、6月が多い。すなわち子供たちは覚えたてのカタカナで作文を記しているのである。そう考えると素晴らしい。木村の指導の賜物だろう。

下:上半分の詩は木村の手によるか「赤い鳥」からの転載。

木村は誤字・誤記はそのまま写している。(カッコ内に小さく訂正を付している)文字を覚えたての子供が方言もそのまま記した素朴な文はごく普通の日常を書いているのだがとても面白い。土々呂方言がとてもなつかしい。今の子供といわず若い世代でも意味不明の部分が多いかも。

まずは上の写真の1編。誤記の訂正はしていない。

オカザキ タダヲ

ウチニハ イチゴガ ナテヰマス。
ニチアンガ トテ タベル。
イチゴハ アカイ。
アオイトモ アリマス。
アメガフルト アカクナル。
イチゴノハハ マルイトヨ。


※最後の「マルイトヨ」に思わず微笑む。「そうだねぇ」と相槌を打ってあげたくなる。「マコツ、マコツ」というべきか。


上の写真の一編。戸松君の作品は方言がとても面白い。

トマツ ヨシアキ

ワタクシト オトサント ヰルト ブタガナイテヰマス。
ソスルト オトサント ブタノミズヲ モレニサロイテ ブタニノマ(セル)
ワタクシハ マイニチモライニサロク。
クルマニツンデ モレニサロク。


若い世代には解説が必要だ。

※昔は内職で豚を飼っている家庭がままあった。
エサ(ハミと言っていた。下の作品ではエとも言っている)は家庭の残飯である。昔のことだから今みたいな栄養豊富で豪勢な残飯ではなく、野菜の剥き皮とか魚の内臓とか米のとぎ汁を近所じゅうから天秤棒の桶やリヤカーで回収するのである。重量の多くは米のとぎ汁だからこの少年は豚の水と言っているのである。完全リサイクルの循環型エコ社会であった。

※「モレ」とは「モラウ」ということ。

※「サロク」は「歩く」のこと。今の若い世代は使わなくなった。もとは「さ歩く」だから方言ではなく品のいい古語であるはず。九州では広く使われる言葉。
江戸時代にロシア船が漂流した薩摩の漁船から、生き残った少年を救って連れ帰り、日本語の教師にして日本語を習得しようとした。「着物を着て歩く」は「イショキチサロク」と習ったというから、まったくの方言である。司馬遼太郎の何かで読んだ記憶がある。

花岡君はニワトリの話。昔は家畜・家禽を飼うのは農家でなくとも普通だった。

ハナオカ フクミ

ウチニワ ニワトリガヒトツ オリマス。
オトサンモ エヲカスルヨ。
ワタシモカスルヨ。オリモカスルヨ。
イヌガニワトリヲ モドカス。
ヒヨコヲダスト ヨロコンデアソンデイマス。
オカサンガ エヲヤルト ピヨピヨトナイテタベマス。
オヤノチリヲ ピヨピヨトナイテツイテイキマス。
オヤドリガ コケコケトナクト 
ヒヨコガミンナアツマテキマシタ。
オヤドリヲ ヒヨコガピヨピヨト ヨビマス。


※「カスル」とは「食わせる」のこと
※「モドカス」とは「からかう」のこと。そういえば最近聞かない言葉になっているなぁ。



※鈴木三重吉の出身地、広島市立図書館ではオンラインで三重吉の業績や「赤い鳥」関連情報を見ることができる。この中に「赤い鳥」の総索引があるので全国からの投稿者を調べることができる。地域別の分布、個人別の多寡などをみているとなかなか面白い。

木村寿在職時の土々呂小からの投稿いくつかを見かけたが大量というほどでない。私の気づいた投稿は4、5編しかなかった。もし調べるときには宮城県土々呂小などと間違えて記録されている場合があるので要注意。土々呂小の作品群は赤い鳥以外の「鑑賞文選」等にも多数掲載されている。

「赤い鳥」では全体として宮崎県からの投稿は少ない。意外に門川の草川小からの投稿の方が土々呂より多い。草川には集団として熱心な教師群がいて綴り方教育が盛んな時期があったようだ。

県内個人で目立つのは高森通少年の掲載数の多さ(12編)である。これは教育研究者である宮大の菅邦男教授は「高森通夫は、宮崎の子どもたちの中にあっては、希有(けう)な存在と言えよう」とまで言っておられる。ココを参照。

高森通夫は詩人で東郷町教育長を勤められた高森文夫氏の弟さんで延岡で高森皮膚科医院院長だった方である。通夫氏も医業のかたわら短歌をやっておられたようだ。私が若い頃お宅でお会いしたことがあり、皮膚科にも子供の治療に行ったことがあるが、もちろん当時はそんなことを知る由も無かった。

しかし、この索引を見て驚くのは他県には一人で何十篇も掲載されている高森少年どころではない天才少女や少年がたくさんいることである。たとえば仙台の阿部和子という少女はひとりで50編。プロ並である。彼ら文学少年少女の行く末はどうなったのか?
ちなみに宮沢賢治もたびたび投稿したらしいが一回も採用されなかったという。選者に見る目がなかったのか?


木村寿の土々呂小での仕事と赤い鳥関連のエントリは以下の項目があるのでカテゴリ分類「土々呂」で調べて下さい。

土々呂の子供 遠足(1)

土々呂の子供 遠足(2)

土々呂の子供 遠足(3)

土々呂の子供 調べた綴り方

土々呂の子供 ジョログモとカバン

土々呂の子供 トンビと船おろし

木村寿の綴方教育

「赤い鳥」 と門川

山村の子供の綴り方

「赤い鳥」 高森通夫の詩








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グーグルアース上の領土争奪戦

  • 2011/06/17(金) 00:52:10

前回エントリで今ホットに領土争奪戦が行われている南沙諸島(スプラトリー諸島)をグーグルアースで調べたついでに日本近辺も調べてみた。
尖閣諸島は前回で調査済み。どうやらネット上では中国人愛国者たちが尖閣上陸を果たしている。

さて偏狭な愛国心では中国に引けをとらない韓国人たちはどうしているのか?
日本と韓国が係争中の日本海の孤島、竹島(韓国名、独島、トクト)を見てみよう。

下:竹島という表記はどこにも見られない。グーグルはこの島を係争中の島として、日韓いずれの表記も採用せず、青い字でLiancourt Rocks(リアンクール礁 )という英語名を付けている。実はリアンクールとは昔ここを見つけたフランス捕鯨船リアンクール号に由来するからフランス語である。

韓国人愛国者の書き込みで充満している。日本のネット右翼たちはやられっぱなしでいいのかな? ネット上には口汚く韓国をののしることにだけ生きがいを感じるヒマな輩がひしめいているのに面白い現象である。

下:ちなみに北方領土には日本人による書き込みはまったく見られない。日本の右翼が遠慮しているのか、ロシアが怖いのか、グーグルが規制しているのか知らないが。


下:日本人国粋主義者に比べると韓国人愛国者は遠慮というものを知らない。
竹島はまだしも、日本人にとっては議論の余地もないはずの対馬にもしっかりと韓国領土と書きこんでいる。

対馬は元来韓国領土である、というのは韓国では広く信じられている論であり、常識といってもよい。つまり現状は日本による不法占領なのである。彼らの主張の根拠はウィキペディアに詳しいのでそちらを見て欲しい。

では、世界最強の愛国者同士の韓国と中国がぶつかるとどうなるのか?東シナ海にごく小さな岩礁である蘇岩礁(中国名、韓国名では離於島)がある。

蘇岩礁は海面下というから領土にもならないような暗礁であるが、韓国はここに大規模で恒久的な海洋調査基地を設けている。当然中国はこころよく思うはずがない。ここはオレの大陸棚の上にあると主張している。実際は韓国からの方が中国からより近いので韓国人たちは韓国領であると主張している。しかしこれは暗礁であるから領土たりえない。
韓国はなかなか果敢である。中国相手に一歩も引かず遠慮しない。中国に遠慮して尖閣に一歩も上陸しない日本政府とは大違いである。


ここの書き込みは韓国が圧倒しているようだ。実際に竹島と同様に韓国が実効支配している。彼らは何もない海のうえにもどんどん書き込みをしている。

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南沙諸島

  • 2011/06/16(木) 01:44:36

今月になってベトナムと中国が南沙諸島をめぐって対立している。
いや、対立は以前からあったが中国が思い切った攻勢に出た、というべきか。
中国がふたこと目には「覇権主義反対、帝国主義反対」といっていた昔がなつかしい。ただ中国は自分の覇権主義には昔から寛容であるが。

下:南沙諸島は中国からはるかに遠い。


南沙諸島(今後スプラトリー諸島と記す)とかそのそばにあるパラワン島とかは日本人にはあまり縁がない。最近でこそテレビ番組の秘境物でパラワン島が紹介されたりすることもあるが、地図オタクの私だって意識になかったような地名である。

15年くらい前に大西英司の「アジア覇権戦争」というシュミレーション小説を読んだ。普段は絶対読まないたぐいの本であるが何かの拍子に読んでしまった。この小説の舞台がパラワン島とスプラトリー諸島なのである。それ以来この地域が頭にしっかりインプットされた。

しかし、なぜ中国が本土からはるかに遠いスプラトリー諸島の占有権を主張するのか、については考えたこともなかった。どうせ強欲な中国が相手がフィリピンやベトナムといった弱小国だから、言った者勝ちでハッタリをかませ、相手がビビったスキに占有を既成事実化していくハラだろう、位に思っていた。中国が尖閣でも持ち出すような大陸棚論ではフィリピンに理があり、中国の大陸棚からは隔絶している。

いずれが勝つにせよ日本人には関係ないが、判官びいきでベトナム・フィリピンを高みの見物で応援しようか、とくらいに思っていた。

ところがである。最近、スプラトリー諸島はなんと日本領土であったことを知って大変驚いた。日本にはあの遠い南の島の騒ぎは無縁ではなかったのである。
すなわち、戦前の1938年にあの諸島を日本は自国領に組み込み、リン鉱石採掘なども行い実効支配していたのである。第二次大戦以前であるから戦争中のドサクサまぎれではない。えらく離れているが台湾の高雄市に所属していた。硫黄島が東京都所属というよりも遠く離れている。

敗戦で日本は台湾を手放したわけだから台湾所属のスプラトリー諸島は法的には台湾領ということになる。当然台湾は領有権を主張する。台湾を自国領とする中国も領有権を主張する。そこに何の不思議もない。中国の主張は荒唐無稽どころかちゃんとスジが通っているのである。なんなら日本はこの係争に証人として出廷して中国有利の歴史的証拠をいくらでも提出できるかもしれない。ウーン、奇妙な事態だ。

ただし、中国はこの問題では論争の余地なく中国領であるのは自明のことだ、としている。あえていえば歴史的には中国人が始めて発見しその後もたびたび訪れている、としている。まぁ、それを言い出したらキリがない。アメリカは最初に発見し居住したアメリカ先住民のものだし、オーストラリアはアボリジニのものだ。中国がこの島々を実効支配していれば、昔フランスや日本に占有されることもなかったはずだ。日本領からの継承を訴えたほうがよほど理にかなうはずだが、沽券にかかわるのでそれは言いたくないらしい。
※中国の主張はココに詳しいので参照して下さい。

下:グーグルアースではスプラトリー諸島の島々は書き込みの陣取り合戦状態。中国とベトナムの文字が多いが、英語表記みたいに見えるのはフィリピンかマレーシア側か。


ベトナムが実効支配するには中国と本気で一戦交える覚悟が必要だが、彼らは過去に1979年の中越戦争で中国と互角以上に戦った経験がある。ポルポト政権を支援する中国は傲慢にもベトナムを懲罰する、として大軍を投じ戦争をしかけたものの逆に戦争慣れしたはるかに小さな軍のベトナムに大苦戦した。
日本にも暴支膺懲(ぼうしようちょう)と叫んでいた傲慢な時代があったから人のことは言えないが。

陸の戦いではベトナムに分があっても海の戦いとなると中国に分がありそうだ。西沙諸島は1974年、ベトナム戦争末期のドサクサに中国が強引に南ベトナムから奪い取ったという過去もある。

下:グーグルアースの尖閣諸島。しっかり中国人が書き込んでいる。グーグルは追い出すがちゃんと利用はする。ここにもスプラトリー諸島のような中国の実力行使が十分にありうる。


これは2011年6月のポストであるが、その後予想通り、2012年から中国による尖閣諸島に対する実力行使が始まった。

コチラに関連記事。戦前の南沙諸島での日本企業の活動について記した。

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木馬(きんま)の制動

  • 2011/06/14(火) 13:29:39

昔の山林作業では木馬(きんま)が一般的に使われた。私も木馬を知らなくはない、というほどで深く考えたことはなかったが、木馬といえども軌道の一種だから鉄道好きなら知っておいて不思議はない。

下:木馬と木馬道。飫肥方面。


「木馬」でググるとおもちゃのモクバばかりが検索に引っかかるので「木馬 きんま」あるいは「木馬道」で検索するのがコツである。各地で懐古的に復活する試みもあるようだ。下の写真はそんな一例。

下:おじさんの左手のワイヤに留意。


ココでは昔の実際の作業の様子をリアルに見ることができる。筋骨隆々たる若者の力みなぎる作業風景が生き生きと連続的に撮影されている。昭和33年の記録。なかなか貴重な資料である。

義父は諸塚村の生まれで長年林業に従事した。そこで「木馬」のことを聞いてみたら案の定、木馬曳きをしていたという。諸塚にあった森林軌道もよく知っていた。
ふだん酒を飲むと軍隊の思い出話はするがそんな話は聞いたことがない。彼らにとって林業の話は生活の日常であったから特に話題にするほどでもない、という意識のようだ。
以下は彼の経験による木馬の概説である。

下:軌道(盤木)のことはさておいて、まずは木馬の構造。こんな簡単で小さなモノに場合によっては何トンも載せる。(クリックで拡大)


下:これに丸太を積載するとこうなる。実際は多くの場合傾斜した軌道で使用されている。制動方法に留意。(クリックで拡大)


下:傾斜面でのイメージ。木馬の最大の工夫はワイヤによる制動であることがわかるだろう。(クリックで拡大)


当初、木馬は木の軌道を単に滑らせるだけのソリだ、と考えていたのであるが実は優れた工夫がある。ブレーキのない自動車は危険でとても乗れないのと同じで、勾配のきつい木馬道を走る木馬でも制動が最大の問題で、簡単だが面白い仕組みがある。
●木馬自体には制動機はついておらず、軌道にそって置かれているワイヤを使う。ワイヤの傾斜の上側は軌道わきの立ち木や切り株に固定してある。ワイヤは50m〜100mくらい間隔で設置してある。
●ワイヤを梶棒の丸太に巻きつけて、ワイヤと丸太の間の摩擦力で木馬が傾斜を下ろうとする力とつりあわせる。勾配の緩急に応じ巻き数を変え摩擦力を加減できる。
●ワイヤを徐々に緩めながら巻きついたところに送り込んで木馬を下方に滑らせる。だから木馬の荷重を支えるのは人間ではなくワイヤ端の切り株なのである。
●カーブではピンと伸張したワイヤは曲がらないので、ワイヤを切り替える。そういうポイントには必ず次のワイヤが用意されている。ワイヤは軌道の付属品で常設してある。
●木馬のソリには潤滑のために食用油を塗る。だから常時竹の油筒を携帯していた。
●丸太は長短何本ものカスガイで固定する。大きいものでは70cmくらいはある。帰路は木馬とカスガイを背負って徒歩で帰るのが大変であった。木馬が50kgあるしカスガイも数十キロはある。だから普通は女性が助手としてともに行動し、帰りにカスガイを背負った。長い木馬道になると数kmに及ぶ。
●木馬道はおおむね勾配があるものだが、所によっては水平な部分もある。事前に予測して速度を上げ惰力をつけてそこを通過する。それに失敗して停止してしまうと再起動が容易ではない。ソリは摩擦熱で煙が出るくらい過熱していて、盤木と溶着してしまうほどであった。油を塗ったり木馬の尻を振ったり仲間の力を借りたりし、渾身の力で脱出する。
●木馬道は地面の上ばかりではない。谷を渡るところ、急傾斜地に平行に走るところでは盤木の下に桟橋を設置して高くなっている。そこを通過するのは水平なハシゴの上を歩くようなものである。盤木の間に足を踏みはずそうものならたちまち木馬の下敷きになる。とても怖かったという。

●もうひとつ怖いのはワイヤのねじれ癖。事業所で事前に皆でワイヤを巻き方向を統一して妙なクセがつかないようにしていた。ワイヤに手足が巻き込まれると大怪我をする。義父の同僚にも障害を負った人がいたとか。死者も多かったのではにだろうか。
●雨の日は滑りがよすぎて危険なので作業は休み。とにかく木馬曳きは危険なので賃金は良かったという。

厚生労働省の労働安全衛生規則には木馬関連の細かい規則が指示されている。(第二節 木馬運材及び雪そり運材 第四百八十五条)それだけ危険の多い職場ということか。この省令はいまでも有効だと思うが、木馬のない現代では無意味になっている。

昭和30年代になると林業用索道が普及し木馬は廃れてしまった。それはウィンチの方がずっと便利で安全だろう。
ココには木馬の時代の労働のようす、山村の生活がよく描かれている。
ココには和歌山での木馬道の構造の図面がある。

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