コクリコ坂から  原作マンガ

  • 2011/07/29(金) 14:23:08


上:KDDIのCMより。コクリコ荘のイメージか?

JR石川町近くのイタリア山公園にある外交官の家である。入場無料。
横浜
横浜 posted by (C)オトジマ

既述のように「コクリコ坂から」は「なかよし」に連載された少女マンガである。映画とタイアップで映画公開直前に発行された角川文庫版を買ってきて読んでみた。
普段は少女マンガどころか少年マンガも読まないのであるが、キラキラのおメメや突如主人公を取り巻く花々を辛抱しながらなんとか最後まで読み通した。結論的にはこのマンガと映画は全くの別物。読まなくても全然損はない。



※原作と映画の設定の大きな相違。
原作は1980年代。コクリコ荘の住人北斗は男で海があこがれる人。母は写真家で風間の家は写真店。学園紛争の争点は制服自由化。父の死は朝鮮戦争と無関係。芸者の金太という重要な脇役がいる。マンガは学園ラブコメ風であるがそのコメの部分は映画ではすべてカット。結果、映画に残ったのはコクリコ荘と主要登場人物、異母兄妹の恋愛などの基本設定だけ。


下:マンガの「コクリコ坂から」より(クリック拡大)

下左:海が毎朝揚げるのは信号旗でなく国旗。ただし日の丸じゃないよ。なぜか英米の旗。(クリック拡大)
下右:北斗は原作ではイケメン男。海があこがれる人。

下左:原作の祖母は軽くてコミカル。祖父もいる。
下右:ベッド上の海はリッチ感があって全然貧乏たらしくない。

吾郎氏談。---映画では海は板の間で、制服のスカートを寝押しして地味な柄のせんべい布団に寝ている。製作中にそれを見た駿氏が「海ちゃんがそんな貧乏たらしいフトンに寝るか!白いフトンカバーのかかったフワフワの布団だろ!」と文句を言ったとか。時代設定は吾郎氏が生まれる以前だから時代感覚がつかめない吾郎氏は年配者たちに聞いて回ったそうだ。海と同世代のプロデューサーの鈴木氏は貧しい家庭ではなかったが「当時はフトンカバーなんてなかった」というので原案どうりにしたという。私も吾郎氏の案に賛成。



「コクリコ坂から」は1980年1月から8月まで連載だから、長期連載ではない。宮崎駿氏は「不発に終わった作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)」と言っている。「耳をすませば」は1989年に「りぼん」に連載だから、コクリコの方が9年早い。

あちこちで語られていることだが------1980年代はじめ、駿氏がジブリの設立以前のヒマな頃、八ヶ岳にあった宮崎家の山荘(宮崎氏が建てた物ではなく夫人の実家の物)で夏休みを過ごした。なんにもない山荘に転がっていたのは宮崎氏の姪たちがもってきた「なかよし」などの雑誌しかなく、駿氏はやむなくヒマつぶしにそれを読んで過ごしたという。そのなかに「コクリコ坂」あった。そのころ吾郎氏は中学生くらいでその同じ本をその山荘で夏休みごとに何度も読んだというから、父子で同時期に同じマンガを読んでいるわけだ。ごまんとある少女マンガのなかで「コクリコ坂」が栄えあるジブリ作品の原作となれたのはたまさかの幸運であったようだ。いかに児童文学に造詣の深い駿氏と言えども世にあふれるボーダイなマンガのすべてに目を通してアニメ化を検討する、というのは不可能。

下:岩波少年文庫の50冊。岩波が配布する小冊子。宮崎氏が薦める50冊が彼の簡単な解説で紹介される。彼はこの小冊子のために読み直しを含め3ヶ月がかりで読破したそうである。彼に薦められれば読みたくはなるが、少年文庫とはいえ読むのは結構ホネが折れるものである。



ジブリ作品に取り上げられると、どんな無名の人でも名声と富が同時に舞い込む。アリエッティの音楽のセシル・コルベル、もののけ姫の米良美一、千と千尋の木村弓など。ほとんどはそのときだけの消耗品であるマンガもジブリ作品になると永遠の命を持つ。刀根夕子「おもひでぽろぽろ」、柊あおいの「耳をすませば」、そして今回の高橋千鶴の「コクリコ坂から」もそうなるだろう。

「コクリコ坂」については宮崎氏はその弱点を縷々述べている。(ココを参照)だから駿氏はシナリオ化にあたってムチャクチャに改変している。現在販売されている1冊本では300ページ以上あるから結構長い話であるが、ありとあらゆる大ネタ、小ネタをそぎ落とし、設定も時代も変えてしまい、あまり原型を留めていない。このマンガからあの映画ができるというのが奇跡のようである。

はたしてそこまで原作をないがしろにして原作が必要なの?とも思えるが、やっぱりあんなに創造力のある人でも他人の発想からインスパイアされることが必要なのだろう。ジブリ作品では海外の名作児童文学を原作にした「ハウル」「ゲド」「アリエッティ」よりも日本の名もないマンガが原作の「おもひでぽろぽろ」「耳をすませば」の方が海外で評価が高い。「コクリコ」もその系列に名を連ねる可能性がある。
※後日、当ブログの「紺色のうねりが」のエントリを読んだあるタイ人からメールを頂いたが彼は感動して数度映画館に足を運んだという。つまり外国人のメンタリティにも訴求する力があるということだろう。

とりわけ「耳をすませば」にはいまだに熱狂的なファンが多い。これは絵コンテを宮崎駿が描き、ジブリきってのベテランアニメーターであった近藤喜文が監督した作品である。ジブリファンでもこの作品をモストフェイバリッツとするファンは多い。今やジブリ作品のファンも高齢化しつつあり、子供のファンが少ないが、この作品は今の中学生にも好まれている。私もこの作品は奇跡的な完成度を持つ作品だと思う。「コクリコ坂から」は佳品ではあるが、この作品には及ばないと思う。

下:中盤のクライマックス、雫が歌う場面。涙が出るくらいの名場面である。この場面を担当したアニメーターはこの二分半に1年かかったという。歌が効果的に使われ感動を呼ぶというのも「コクリコ」に共通している。


下:「耳をすませば」原作マンガ。海外ファンが翻訳したもの。「コクリコ」と違い、この作品はかなり原作に忠実に映画化されている。
左:図書カードの天沢聖司に気づく場面もほとんど映画と同じ。右:エンディングの丘の上から朝日を眺める場面もほぼ同じ。(クリック拡大で詳細が読める。さらにクリック)

これを翻訳している人物はシンガポールの青年である。海外のジブリファンの中では結構有名人物。詳しくは彼の運営するサイトで見て欲しい。いかに「耳をすませば」に入れ込んでいるかが伺える。彼は「耳をすませば」を翻訳したくて日本語を勉強したのである。
ここから「耳をすませば」のシノプシスやマンガのスキャンを手に入れて英語の勉強に役立てるといい。高校生の夏休みの英文長文読解の勉強には最適では?

ナウシカネットには英語版の全ジブリ作品の粗筋があるので興味ある方は読んでみることをお薦めする。ストーリーはあらかじめ知っているので読むのにそう困難はない。ニューヨークタイムスを読むのはなかなか骨が折れるものだが、このくらいの英語なら高校生レベルの力でスイスイ読める。


※「コクリコ坂から」の感想はココ
※挿入歌、「紺色のうねりが」関連はココ
※美術・背景についてはココ
※宮崎駿氏の次回作についてはコチラ



下:宮崎駿氏はイギリス児童文学に造詣が深い。とくにウェストールはお気に入り。「ブラッカムの爆撃機」には宮崎氏による物語の解説がオリジナルのマンガで挿入されている。実はこの本の価値はウェストールの原作よりも、宮崎氏の20ページほどのカラーマンガにある。児童文学好きの方よりも、ヒコーキ好き、戦記物好きの人なら買って損はない。

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コクリコ坂から  カルチェラタン

  • 2011/07/27(水) 01:16:48

前回エントリ「紺色のうねりが」の続き。

コクリコ坂の話の展開のキーは港南高校にある学生会館「カルチェラタン」の存続をめぐる問題である。(※カルチェラタンとはパリにある学生街。学園紛争時には神田カルチェラタンなんてのもあって、解放区みたいな語感が含まれる。関連記事はコチラ

高度経済成長期にはありとあらゆる古い建物が壊されコンクリートや安っぽい新建材の建築ばかりになってしまった。今でもそれは継続している。私の生家は明治時代の古い木造であったが壊してしまいプレハブの縫製工場になってしまった。
古い建物や町並みを頑固に保全するヨーロッパとの違いは、彼の地の建築が石造りであるが日本家屋が木造というのもあるだろうが、日本は人口に対し絶対的に平地が狭いので古い建物の存続を許さないのである。

下:カルチェラタンは3階建てくらいの古い木造洋館である。
左は宮崎吾郎氏描くイメージボード 右は実際の背景画


内部がきわめて印象的で、その魔窟的な不気味さがひとつの見せ場になっている。
下:パンフレットから(クリックで拡大)


高い吹き抜けホールの周囲に階段や手すりの回廊がある。
これはどこかで見た設定である。

まずは最も古いものから。
右の図は城の内部で吹き抜けの中空に橋が架かっている。吹き抜けの周囲には欄干のある回廊が見える。(クリック拡大)

これは1980年に宮崎駿氏が描いた「もののけ姫」のストーリーボードでのちには「もののけ姫」という絵本としても出版された本の絵である。
城の外観がまがまがしく、いかにも悪鬼が住んでいそうである。昔、この絵本を読んだときこの城の絵を見ただけでワクワクした記憶がある。ストーリーも面白そうで映画化をおおいに期待した。
ココで読むことができる。ただしフランス語。絵だけでも楽しめる。HTLMをクリック。

ところが実際映画製作に取り掛かると、宮崎氏はこの案を早い段階でいさぎよく捨ててしまう。企画段階で公開された1992年のディズニー映画「美女と野獣」と話がかぶる部分があるのが原因だと思われる。結局、絵本とはタイトルこそ同じだが、お話は全く異なる1997年公開の映画版「もののけ姫」ができた。映画そのものは大ヒットしたが、当時私は絵本版を期待していただけに大変失望したものだ。改変された「もののけ姫」は興行的には大成功したが、作品的には私はあまり評価しない。

しかし、城の内部の設定はその次の作品「千と千尋の神隠し」に生かされた。湯婆々の経営する銭湯「油屋」の内部は絵本番「もののけ姫」のアイデアがふんだんに取り入れられている。
下右:「油屋」内部を地下から見上げたところ

下:「油屋」内部、上階からの俯瞰


下:吹き抜けと回廊、中空の橋、という設定は「ラピュタ」でも見られる。


ともかく宮崎駿氏は30年も昔から大きな高い吹き抜けを持つ魔窟じみた建築に執着していることがうかがえるのである。目黒雅叙園がモデルともいわれる。ジブリ美術館も大きな吹き抜けがある。コクリコでは再びこんな建物を描きたくての企画か、とも思われる。
ちなみに、原作の少女マンガ「コクリコ坂から」では学校で持ち上がる問題は古い建物の保全問題ではなくて制服自由化問題である。カルチェラタンなど出てこない。なるほどそれではジブリ背景陣の見せ場がない。

下:油屋のイメージボード。外観もカルチェラタンに似ている。
10年前の「千と千尋の神隠し」の「ジ・アートオブジブリ」を見るとその背景画の密度の濃さに圧倒される。あの作品では我々がどこかで見た懐かしい光景に仮託したとんでもない異世界を背景陣の力業で現出させたものであった。



下:カルチェラタンの部室でガリを切る海とガリ版印刷する俊。私も小中学生まではこんな作業をしていた。高校ではファックス製版機に移行していた。


映画の「コクリコ坂」の背景はいつもジブリ作品がそうであるように素晴らしい。もうもうたるケムリの重工業地帯であれ、小汚い木造住宅のならぶ運河沿いの下町だって情感横溢で密度が濃い。
ところが、キネマ旬報の対談で宮崎吾郎氏によれば、昨年の「仮ぐらしのアリエッティ」から休むまもなく制作が続行したので背景陣も疲労がはなはだしく、さらには絵コンテの遅れ、製作期間の短さなどで、かなりの手抜きたらざるを得なかったとか。手抜きは背景のみならず作画、動画にもおよんだ。たとえば作画枚数17万枚の「ポニョ」ではキャラクターが静止する場面はほとんどないが、作画枚数約7万枚の「コクリコ」では1カットの秒数が短くなり、止め絵と呼ばれる動かない場面が多くなってしまったとか。ただし、怪我の功名でそれがテンポアップにつながり、切れ味がよい作品となったともいう。まぁ。我々素人が見ている分にはさほど手抜き感はわからない。海が屋内を歩く様がぎこちなく感じるくらい。

背景画集の「ジ・アートオブコクリコ坂から」(The Art of From Up On Poppy Hill)がamazonから届いたので見てみた。それを見る限りは素晴らしい背景画ばかりである。意外なのは吾郎氏の絵の達者さである。彼の描くイメージボードが風景、屋内、人物とりまぜて多数収録されている。さすがにプロの絵である。中年になってからこの道に入ったとは思えない。おそらく子供のころから絵心があったに違いない。

下:吾郎氏描く横浜港

下:昔懐かしいオート三輪「くろがね」のブランドを覚えている人は年寄り。吾郎氏描くイメージボード



アニメの監督は必ずしも絵が描ける必要はないらしい。大物でも高畑勲氏はまったく描かず、押井守氏も演出意図を伝達するに足りるレベル位のもので絵描きの絵ではない。しかし、監督の意図をスタッフに伝えるためには絵は描けるに越したことはない。実は彼が絵が描けることは前作の「ゲド戦記」の絵コンテでも垣間見せていたし、数年前の堀田善衛関連企画の折にも感心したことがある。
下:吾郎氏描く京の町。藤原定家『明月記』のアニメ化を探ったころのイメージボード。

下:吾郎氏。平安末期ともなると遷都400年の間に京都は鬱蒼たる樹木に覆われて、薄暗い物騒なところになったという仮説。これはその部分である。全体を見るとイマジネーション豊かなプロの絵である。


画力と演出力は比例するわけではないが、画力はそこそこの天性と意識的な努力がないとここまでには達しないもの。吾郎氏が偉大な親の七光りだけでそのポジションに留まっていられる訳ではないことを示すものである。前作では吾郎氏の起用そのものに反対し、製作中は息子と顔を合わせることも無く徹底的に突き放していた駿氏が今回はシナリオを書きバックアップを怠らなかったのも息子の能力を見限るどころかかなり評価していたからではないだろうか。
8月9日にNHKが「ふたり・コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎駿×宮崎吾朗〜」というドキュメンタリーを放映するのでその内幕が明らかになる。楽しみだ。
このドキュメンタリーについての感想を後日のエントリーに記したので参照。

下:ちなみに吾郎氏の弟の宮崎啓介はプロの版画家。彼の木口木版画は「耳をすませば」で登場している。どうやら画力は遺伝するようだ。


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コクリコ坂から   紺色のうねりが

  • 2011/07/23(土) 23:42:46



前回エントリの続き。

「コクリコ坂から」では歌が効果的に使われる。
生徒達の斉唱する「紺色のうねりが」が気になったので少し調べてみた。
「紺色のうねりが」は劇中で高校の学生会館「カルチェラタン」撤去阻止闘争のクライマックスの場面、学生たちが合唱する。おそらく校歌という設定なんだろうが、何の説明もなく唐突に歌われるのでわかりづらい。「校歌斉唱!」の一言が必要だっただろう。観客はそんなに察しがよくないものだ。

なかなかいい歌である。「さよならの夏」はキャッチーなのでTVCMでも散々つかわれて耳になじんでいてエンディングを効果的に締める。「紺色のうねりが」は観客の意表をついて突然歌われ大集団の斉唱で感動を呼ぶ。実はこの映画のメインの曲はこちらだったのである。うまい隠し球だ。

※だれかがYoutubeへアップした「紺色のうねりが」をここに埋め込んでいたのであるが、すぐに削除された。ituneストア買ったって1曲200円で、たかが知れているので有償で買いましょう。国外にまではジブリの削除要請も届かないみたいなので中国では聞ける。どうしてもタダで聞きたい方はコチラへ

※「紺色のうねりが」はの合唱版、すなわちサントラ版は「コクリコ坂から」サントラアルバムに収録されている。ituneストアでは単曲200円。サントラだけに大変短くワンコーラスのみ約1分である。短か!!

紺色のうねりが


紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
われらは山岳の峰々となり
未来から吹く風に 頭をあげよ

紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
透明な宇宙の 風と光を受けて
広い世界に 正しい時代を作れ

われらは たゆまなく進みつづけん
未来から吹く風に セイルをあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ



作曲の谷山浩子は吾郎監督の前作「ゲド」でいっしょに仕事している。その映画で唯一印象的なテルーが歌う「テルーの歌」も彼女の曲。
詩の原案は宮沢賢治、宮崎駿、宮崎吾郎、作詞とある。映画中で聴いていても「水平線」「山岳」という普通の歌詞、校歌では珍しい響きの語彙が印象的である。
「紺色のうねりが のみつくす日が来ても」というのは字義的には津波のことで、比喩的には若者が立ち向かう困難を指している。
ところが、大津波は比喩ではなく本当に来てしまった。その場面の製作は3月の地震以前にすんでいたらしい。だから、これは偶然ではあるが被災者へのタイムリーなメッセージとなってしまった。ただし映画中で歌詞を聞き取り意味を汲み取るのは困難。私も自宅に帰ってネットで調べてわかったことなのである。
原案とされた宮沢賢治の詩は「生徒諸君に寄せる」というもの。映画中、カルチェラタンの場面の背景音で現代詩研究会の部活の生徒達が詩を朗読するのだが、その中でも朗読されているようだ。それもパンフレットでクレジットを読んでわかること。映画館で見ているさなかに気づくのはほとんど不可能。

ともかく宮沢賢治の詩を見てみよう。

生徒諸君に寄せる


生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いてくる
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか

今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や徳性は
ただ誤解から生じたとさえ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山岳でなければならぬ

宇宙は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか

あらたな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ


新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て

衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踊の範囲にまで高めよ

あらたな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

新しい時代のダーヴィンよ
更に東洋風静観のチャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ

おほよそ統計に従はば
諸君のなかに少くとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただこれらを刻み出すべきである

潮や風・・・
あらゆる自然の力を用ひ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ

ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか


下:岩波文庫版 宮沢賢治詩集


彼は花巻農学校で教師をした時代があるのでその卒業生に贈った詩なのかと思っていたが、どうやらそうではなく母校の旧制盛岡中学校友会誌への寄稿として書かれた。ただし完成せず、草稿のみ残されたものを賢治没後はるか後、戦後に雑誌編集者によって草稿の断片が再構成されて公開された。だから厳密には賢治の真作ではない。それにもかかわらず素晴らしい詩である。再構成者の確かな腕がうかがわれる。そこらの詳細はココで。

賢治の詩の草稿がもとになって一遍の詩が生まれ、さらにそれを元に「紺色のうねりが」という新たな詩が生まれた。そんな手法は和歌の世界では昔からあるので、別に不思議ではない。歌の歌詞には冗長な「生徒諸君に寄せる」のエッセンスを取り出した「紺色のうねりが」は、世に出る若者への餞と、困難に直面する日本へのメッセージとして秀逸である。

「紺色のうねりが」では「水平線に没するなかれ」という繰り返しが印象的だが、「生徒諸君に寄せる」では「地平線」。「紺いろの地平線が膨らみ高まるときに」より水平線の方が自然である。地平線が膨らみ高まることは地質時代的なスパンではありえても、現実にはありえない。しかし水平線なら津波という現象がある。それに映画の全体的テーマが「海」である。ちなみに英語では水平線も地平線も同じ「horizon」(ホライズン)である。
賢治は地震や津波の被害の多い岩手の人ではあるが、内陸部に住んでいたので津波を想定した詩とならなかったのではないだろうか。
いずれにせよ「紺色のうねりが」は大津波の年にふさわしい歌詞となった。また賢治の詩業の一面を掘り起こし、あらたな生命を吹き込んだ。

下:「紺色のうねりが」の合唱場面の後で徳丸理事長がカルチェラタン存続を約束する場面。
ただし理事長のセリフは「私が責任を持って別のところに新しいクラブハウスを建てよう」というものでそれに生徒達が歓喜する。その歓喜を見て観客はカルチェの存続を推測するほかない。理事長が「この建物を保存する」と言ってもらうと話はスムーズにつながってわかりやすいのであるが。




豪放磊落に描かれる徳丸氏は歴然と徳間康快がモデルになっている。劇中では徳丸の会社は出版社で「アサヒ芸新」つまり「アサヒ芸能」のポスターが張ってある。ジブリの敏腕プロデューサー鈴木敏夫氏もかつてはこの週刊誌の記者であった。
徳間康快は徳間書店のワンマン社長であり、当初はスタジオジブリのオーナーでもあった。また彼は「逗子開成学園」の理事長を務めていたから適役といえば適役。
とすると、俊や海が電車に乗って東京に訪ねて行った先は徳間書店があった新橋ということか。

※カルチェラタン、背景、美術についてはココに詳説
※原作マンガとの比較については ココに詳説
ココに「生徒諸君に寄せる」について興味ある点が書かれているブログがあるので参照されたい。


下:俊が揚げる信号旗の意味は海の揚げる信号旗「安全な航海を祈る」に対する返礼。これも劇中では何の解説もない。客にわかる訳がないだろ!


下:横浜、港の見える丘公園に掲げられた信号機。「ククリコ坂」とのタイアップ。
横浜
横浜 posted by (C)オトジマ

※DTI閉鎖にともない、ブログ移転してます。以下にどうぞ。FC2の「一歩 日豊 散歩」


※2013年7月の「風立ちぬ」レビューはコチラ






コチラへ marginwidth=

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コクリコ坂から

  • 2011/07/22(金) 01:05:57

私は大昔からのジブリファンなので、前評判のいかんにかかわらずジブリの映画は見に行く。


今年は「コクリコ坂から」。監督は宮崎駿の息子、吾郎氏である。吾郎は元来信州大学の林産関係を出て、造園技術者として働いていたのであるが、ジブリ美術館の設立とともにジブリにスカウトされ、さらには前作「ゲド戦記」で映画の監督をするに至った。

「ゲド戦記」はジブリブランドの力で興行的には失敗はなかっただろうが、作品的にはとても成功したとはいいがたい。職人芸が必要とされるアニメーションでずぶの素人がいきなり傑作を作るという離れ業は期待してはいけない。
ただし、あれはいかに原作が優れていようが、短いアニメーションにまとめるとなるとだれがやってもおいそれとはうまくいかない作品のはずで、吾郎氏ばかりを責めるわけにはいかない。

だから今回も制作が公表されてもあまり期待はしていなかった。しかし7月になり試写会がはじまるとレビューで好評価が多いので、意外にいいんじゃないか? という期待も出てきたが、やはり自分の目で見なければなんともいえない。
ということで、2回も見てきた。私の批評眼は自分自身必ずしもあてにならない、と思っているのでこの作品については1回で判断を下せなかったからである。



1回目では、「まぁ、悪くはないけれど....今ひとつ食い足りない」、というくらいの印象であった。80分しか尺がないのでストーリー展開に遊びがない、とか、察しの良くない観客は置いていかれる説明抜きの飛躍があるとか、泣かせどころが単純である、とか釈然としない点があるのである。

間、数日を置いて2度目を見た。今度は話がわかっているので余裕を持って見る。すると、音楽といい話のテンポといい、快適なリズムで展開し、過不足がない。泣かせどころも何箇所もちりばめられている。スッキリ切れ味のいいエンディングにはTVCMですっかり耳になじんだ「さよならの夏」が効果的にかぶさる。こんな切れ味のいい幕切れはジブリでは久しぶりではないだろうか。そこは学園物ラブストーリーという設定も共通する「耳をすませば」に似ている。

実は「耳をすませば」と「コクリコ坂」の共通点は他にもあって、どちらも少女マンガ雑誌の連載物、宮崎駿の企画脚本、若手の監督、劇中に歌う場面が効果的に使われている、東京近郊の具体的な町が舞台、すてきな洋館が出てくる、二人が自転車にニケツで乗って坂道を疾走する、などなど。宮崎氏は背後から若手をこういう形で支援すると佳品ができるようだ。自ら腕を振るうと力みすぎて独りよがりになってしまう、という作品が近年多いのである。「もののけ姫」「ハウルの動く城」「ポニョ」など。

大変満足した2度目の鑑賞であった。自信を持って人に薦められるのであるが、こればかりは各人各様の感性をお持ちなので絶対はない。たとえば私の娘は感動していたが、息子にはあまり受けがよくなかった。
ジブリ作品の中の佳品は何度見ても面白い。逆に繰り返し見たくない作品は私にとっては駄作である。私は「ラピュタ」「トトロ」「耳を澄ませば」「紅の豚」など何度繰り返し見ただろう。残念ながら「ポニョ」は何度も見る気がしない。しかし、「コクリコ坂から」は私はDVDが発売されれば何度も繰り返し見て、何度も涙を流せるだろう。
というわけで、余裕のある方は2度見ることをお勧めする。

映画パンフレットの中で吾郎氏は意訳するとこう述べている。
「生まれて初めて死に物狂いで仕事をし、偉大な父親の書いたシナリオに恥じぬ作品にできるだろうかという不安とプレッシャーにもがき苦しんで暗中模索で製作を進めた。しかし製作最終盤で音声や音楽が入り映画が形をとりだすと、意外や自分の力量以上の、予想を上回る素晴らしい作品が姿を現した。自画自賛ではなく恵まれたスタッフと幸運のおかげであった。」と。
まったくそうかもしれない。彼は「ゲド戦記」では父親にネグレクトされ、完成間際には自分自身で自信喪失したり、完成後はあらゆる映画評にさんざんに罵られ、私の察するところ針のムシロだったと思う。
今回5年ぶりの再挑戦は立派に汚名を晴らした。

下:主人公の少女、海は毎日庭のポールに信号旗を揚げる。信号の意味は「安全な航海を祈る」。ただし劇中ではなんの説明もない。結局最後まで意味不明なのでいささか後味が悪い。


ネタばれにならないストーリーはココで見ていただきたい。
もし見に行くならそこで予習していったほうがいい。

時代設定は1963年の横浜。原作漫画は1980年代のものだから、あえて高度経済成長期に戻したもの。50年前、すなわち半世紀前。オリンピック前の喧騒、まだまだ社会が貧しい時代、大都市の景観は決して美しくはなかったはずだが、この映画ではとても素敵に見える。ジブリならではの背景の緻密さ美しさを十分に堪能できる。そして我々の世代には懐かしい風景や小道具が随所に出てくるのが楽しい。


舞台は横浜と明示されているので、昔の写真や映画などで考証しているはずである。半世紀前、横浜にはあんなに緑が多かったのだろうか?赤松の大木の並木も見られる。そう、土々呂のマツは過去のエントリで述べたが、昔の景観のツボはマツの大木であった。
ところがあの赤松並木は創作らしい。吾郎氏が考証の末、絵になりにくい山下町近辺の風景に悩んでいると白いヒゲのオジイサンが後ろに立ってアドバイスをくれたという。「赤松を入れろ」と。---When I find myself in times of trouble, Father Hayao comes to me,Speaking words of wisdom,"Red woods be."---という感じかな?(もちろんLet it beのメロディーで)
宮崎駿氏は子供のクレヨンセットの茶色は元来赤松の幹を塗るためのものだったと言う。それだけ昔の景観には赤松がありふれたものだったのである。赤松は郷愁をさそうポイントなのであった。ただしそれは関東地方のこと。九州では黒松。さらにはあの界隈に大木の赤松並木があったかどうかはぜんぜん根拠がないのである。

私はこの映画の時代の10年後に横浜の山下町、関内あたりを何度も歩いたが、すでにこの映画のようなレトロ感はなかった。いや、もともとなかったのかもしれないが。

ジブリ映画は音楽がいいことでは定評がある。宮崎駿監督の場合は久石譲が音楽を担当するが、他の監督の場合は異なる。今回は武部聡志。劇中多くの歌が流れる。
ちょうどあの時代の大ヒット「上を向いて歩こう」が繰り返し流れ時代感覚を表す。この映画オリジナルの手島葵の歌もなかなかいい。エンディングの「さよならの夏」は宮崎駿氏のたっての指示とか。1976年の同名のTVドラマ主題歌で森山良子が歌った。宮崎駿氏が「コクリコ坂」を構想したのは1980年代に遡るというから長年温めてきた作品である。道理で熟成されたシナリオの訳だ。当時からテーマ曲として「さよならの夏」を仮想していたという。
森山良子の歌唱はココで聞ける。堂々たる歌唱力。
映画中では手島葵の歌である。例のボソボソとした歌い方であるがこれはこれで悪くないのである。

下は現在Youtubeで聴ける映画中のオリジナル曲。いづれ削除されるだろうから早いうちにダウンロードしといたほうがいいかも。

あさごはんの歌

懐かしい街

紺色のうねりが

上の「紺色のうねりが」では歌/松崎海、となっているが、これは映画の主人公の少女の名前である。映画中では男子生徒中心の斉唱である。なおこの「海」という主人公は場面により友人たちから「メル」と呼ばれる。アニメのキャラクターはみな似たような顔をしているので一瞬別人か?とも思うが、メールはフランス語で海であるからどうやらニックネームらしい。それもなんの説明もないので混乱を招きかねない。

ココのブログでは「さよならの夏」を含めCD収録全曲を聴ける。



他に学生たちの合唱で「白い花のさく頃」が歌われる。話の流れからは、討論会がヒートアップした時、見回りの教員が来るのであるが、荒れた討論をカモフラージュするためリーダーの機転で合唱をする。ということのようだ。歌の選択がなぜこの歌なのかは不明。この場面もうっかりしているとつながりがわからない。メガネの意地悪そうな教員は伏線として一度前に出しておくべきだろう。観客には彼が校長なのか生徒指導教員なのか他の何なのか知る由もないのだ。
歌は昭和25年のナツメロ。ココで原曲が聴ける。

※「紺色のうねりが」については興味深い点が多いので次回エントリで詳しく記す。

※原作マンガについてはココで記している。

※美術・背景・カルチェラタンについてはココ

※2013年7月の「風立ちぬ」レビューはコチラ

下:宮崎氏が山荘で「なかよし」を読んだ思い出を書いたエッセーは「出発点」にある。若き日の思い出に満ちた大変面白いエッセー集である。現在英訳版も出ている。
「折り返し点」はその後に書かれた雑文を集めたもの。


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※DTI閉鎖にともない、ブログ移転してます。以下にどうぞ。FC2の「一歩 日豊 散歩」

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大武寺の仁王

  • 2011/07/21(木) 10:59:20

ケーブルメディア・ワイワイのPR誌「wing」に大武寺に木像仁王があることが紹介されていたので行ってみた。
県内には仁王はあまりないので珍しい。大分の仁王のほとんどが石像なので仁王といえば石像、という先入観があるが、東大寺南大門の仁王をはじめ、元来は木造が主流だったはず。

大武寺はその名のとおり、延岡市大武町にある。昔からの集落内の路地の奥にあるのでナビがないとわかりずらいかもしれない。私の車のナビは安物なので何の表示もないが、娘のiphoneのGPSを見るとよくわかった。わたなべ酒屋を目印にするとわかりやすい。ついでに車もそこに置いていったほうがいいかもしれない。

下:せまい路地奥に山門。


大武寺は真言宗。医王山という山号が珍しい。立派な山門があり、中に仁王がいる。


下:クリックで拡大できます

上:目玉と、阿形の口が塗られているのがどんなんだか。
しかし、なかなか正統派の立派な仁王である。材はケヤキのようである。写真ではスケールがわからないが結構大きい。今これを作るとすると大変高価だろう。

そばに仁王の簡単な来歴を記す標柱が立っている。古くなってやや読みづらい。驚いたことにこの字は20年以上前に私が書いたもののようだ。ヘタクソな字のクセはまさしく私の物。まったく記憶にないが。

下:本堂はコンクリートで有り難味がない。


下:本堂横に小さな堂がある。



より大きな地図で 大武寺 を表示

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「赤い鳥」 高森通夫の詩 2

  • 2011/07/20(水) 01:05:19

前回エントリの続きで高森少年の詩の紹介。

下:高森少年の通った東郷小学校は児童数減少で、中学校と併合し、東郷学園となっている。


高森通夫は宮崎中学校に進学している。現在の大宮高校。
兄の文男は最寄の延岡中学校である。
中学校時代にも「赤い鳥」への投稿を続ける。

宮崎市県立病院前谷口方(十三歳) 高森通夫

魚売り

雨がやんだね、
魚うりが行くね、
四かくな籠に、赤いきれのせてね。


宮崎市県立病院裏門前谷口方(十三歳) 高森通夫

夏の思ひ出 (佳作)

白くけむつてゐる、
人目の中で、
絵を描いたよ。
夕方に近い
河原の中だつたよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨あがり(特選)

雨あがり、しつとりと、
みなふくれてる感じだ。
なにもかも紫いろだ。
風がなく木々はみなしづかだ。
ぽとりと一直線に、
びわの葉がおちた。
夕暮れの日。


北原白秋はこの詩を大変ほめている。自著にこの詩と既出の「午後」を鑑賞作品として収録している。

宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨の朝(佳作)

雨の朝、乾物屋の屋根の鳩、
黒く見えるよ。
胸をふりく歩き出した。
二羽で仲よくならんだ。
瓦が白く光つて、
うろこのやうだ。
鳩は飛び去つた。
隣からうすい煙がのぼるよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

日 向 (佳作)

近頃は秋だよ。
つめ切るに、かげは寒いよ。
日向でつめ切ると、
なつかしい思ひ出がうかぶよ、
地とりして遊んだころの。
つめは靴のそばに落るよ。
朝、
こじきの子のおとしたお菓子、
今は日向になつてゐる。
蟻がそれをはこばうとしてゐる。


日向はヒナタと読む。
単なるツメ切りという日常行為が立派に詩になっている。
ヒナタに落ちてアリが引くのは単なる菓子ではなく、コジキの子の落としたもの。それが詩に情を添えている。
今やコジキを見かけないのでなおさら気になる。
ナベカマを下げムシロを丸めて家族でさすらうコジキを見たことのある世代も私が最後だろう。

下:映画「秒速5cm」より


宮崎市宮崎中学校二年生 高森通夫

成績発表のあつた日

夕日の残つてゐる運動場、
ただこの運動場だけ、
夕日がのこつてゐるやうな、
さびしさ。
あさぎ色の空に、
五月の鯉が泳いでゐる。
舎生が運動してゐる。
白パンツ、青のユニホーム。
夕日は、夕日は、
つかれきつてゐる。
神武のうす暗い森は白つぽく、
成績発表のあつた日、
道場のそばに腰かけて、
僕は一人、
運動場をながめてゐる。


この詩を読むと80年の時代の隔たりを感じない。
宮崎中学校は今の大宮高校で、神宮の森のそばである。放課後の校庭の様子も変わらない。芳しくない成績に憂鬱になるのも今も昔も同じ。
風景の描写のみで彼の心象の憂鬱を的確に表現している。
13歳くらいでこれが書けるというのがすごい。

宮崎市上野町二丁日中尾方 高森通夫

古馬車

なつかしい古馬車。
町の裏通を古い馬車がいく。
灰色じみた馬車。
昔は赤かつたらしい
車台の一部も灰色じみて、
くもり日の町をだまつていく、


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「赤い鳥」  高森通夫の詩 1

  • 2011/07/19(火) 02:16:42


上:東郷町成願寺から見た山々

赤い鳥の投稿者で採用される常連は大勢いた。既述のように一人で50編も採用されるような、プロ並みの文学少年少女の一群がいたのである。

宮崎県では高森通夫が突出していた。昭和7,8,9年頃に12編ほどが「赤い鳥」に見える。小学校5年から中学2年にかけてである。その後、「赤い鳥」が廃刊されている。

高森通夫は宮崎県東臼杵郡東郷村(現日向市)出身。既述のように詩人である兄、高森文男を持ち、彼に影響された面も多いだろう。長じてからは医師となり延岡市で高森皮膚科医院を経営するかたわら歌人として活動した。

出身地の東郷は若山牧水の出身地として有名である。
高森の生家は資産家で裕福だった。だいたい詩人というものは裕福な家から出る。昔はなおさら。若山牧水の生家は医師。ちなみに現在の詩人とも言うべきシンガーソングライターの実家では、井上陽水は歯科医、中島みゆきは産婦人科医、松任谷由美は老舗呉服店、竹内まりやは町長で老舗温泉旅館、さだまさしは裕福な材木商。

下:昭和30年代の東郷、山陰(やまげ)の国道。このあたりに高森の実家「豊後屋」があった。


菅邦男教授は、高森通夫は宮崎県では稀有な存在であった、と述べておられる。そう聞けばいかな子供の作品といえども読みたくなるではないか。
土々呂小の作品もそうであるが、県内からの掲載作品は熱心な綴方教育教師の指導の下で学校から投稿されたものであるのに対し、高森は個人で「赤い鳥」を購読し、個人で投稿していた。当時「赤い鳥」は高価な雑誌であったから普通は田舎で子供が個人で購読するようなものではなかったらしい。

一般に小学校からの投稿作品が児童詩特有の素朴さ、類型性、土着的、生活感、方言の面白さ、などの傾向を持つのに対し、高森の作品にはそういうものでなく、天性の詩心を感じさせる突き抜けたものがある、というのが菅教授が「宮崎県では稀有な存在」といわれる訳のようだ。
そういわれれて読めば、なるほどそうである。

下:東郷町を流れる耳川。この川の川原でタコ揚げをしたものか。


情景を切り取って余情を感じさせる、といった彼の詩はちょっと田舎の児童の作品とは思えない、年次を追って紹介する。評価は「赤い鳥」の選考による。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校 尋五 高森通夫

あの人  (推奨>

私はあの人知つてます。
私が入院してる時、
一しよに入院してました。
私は退院したけれど、
まだまだ入院してました。
あの人、道を通るとき、
赤ちやんおぶつて通ります。
私を見ると笑ひます。
しづかにやさしく笑ひます。
ほほは赤くてふくらんで、
やさしい顔をしてゐます。


こんなテーマが詩になるの?というような作品である。彼は幼くして母を失っている。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校尋六 高森通夫

午 後  (特選)

学校からかへつて、
ごはんをたべて出たよ。
かち粟をかじつて、おうかんに出たよ。
弟をつれて墓に行かうと思つて。
おうかんは白い、ずうつと白い。
午後、
向うで友だちが石ゆみ引いてゐる。
こちらむいて笑つた。


なんで墓に?母の墓か?
昔の舗装されていないホコリっぽい道。
遠くの友だちの笑い顔が印象深い。
2行目は不要だろう。

東郷小学校尋六 高森通夫

昼の月   (佳作>

学校からかへるとき
見たよ、
白い大きな月を。
山の木立のそばに
半分はきえて、
昼の月はうすいな。


宮崎県束臼杵郡東郷小学校 尋六 高森通夫

たこあげ

たこあげに
川へ行つたが、
風が
すくなくて
一度しか上らず、
西の空
赤くなつて、
人も馬も
赤かつた。
夕ぐれの
しづかな川原、
砂ふんで一人かへつた。
西の空はまだ赤い。


下:東郷町山陰の国道から冠山を望む。

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山村の子供の綴り方  西臼杵上野

  • 2011/07/17(日) 01:29:09


上:現在の高千穂町、上野近辺。

西臼杵郡上野村(かみの)は現在は高千穂町の一部であるが、1969年までは独立した村であった。今でこそ延岡から熊本に抜ける国道が改良され、延岡から1時間で着くが、昔は僻村中の僻村だったのではないだろうか。

上野小学校にも佐藤実という熱心な綴り方教師がいたようだ。
ここの子供らが遠足の弁当について書いている。
80年前の土々呂小の子供たちの遠足弁当は海苔巻きやユデタマゴの弁当でなかなかおいしそうであったが、はて上野は。

遠足でべんたうをたべたこと     上野小  3年  坂本邦雄
 
 かやのねもとで、べんたうをたべた。
 私と正男君と昇君でべんたうをたべた。昇君が
「かつひこ君、ここでくおだ」
と言つたので、私と正男君で、おゆなるとおもしろくないので、
「もういふな」
と言つた。昇君が、
「山の神様に、飯を上げておこだ」
と言つた。けれども、私と正男君は上げなかつた。舜君の飯はしら飯、正男君の飯もしら飯であつた。私のだけが、まぜ飯であつた。正男君のさいは、いわし一ぴきであつた。昇君のさいは、こんこのさいであつた。正男君も山の神様に飯を半分上げたから、私も半分上げた。けれども、ちつともくはつさんから、「さいがないからだらう」といつて、みそづけを上げた。けれどもくはつさんから、「もう上げんばい」と言つたら、正男君と昇君が笑つた。正男君の笑ふ時には、小ばなのもとに、ふくれたものが立つ。昇君の飯のくふやつがぬうなつたから、上げて居た飯を取つてくつた。正男君もとつてくつた。
 あたりに、人の話すこゑが聞えてくる。
 向ふのもみぢが、松の木を後にしてゐる。たきの水も白くて、ざあざあとおててゐる。白いぶくがたつてゐる。くろばるの杉も見える。下のみちに、しもばしらが立つてゐる。それが日にてらされて、とけて、じるくなつてゐる。
じやうりをふんで来たものは、こまつただらう。もみぢの中でも、一番赤くなつてゐたのは、たつが岩やのこつちのであつた。


※おゆなる-----多くなる
※しら飯-----白米。昔は麦飯、稗飯、いも飯などが普通。
※さい-----菜、おかず。普通は「せ」「飯んせ」と言った。
※こんこ-----こうこ、たくわん。
※じやうり-----ぞうり

土々呂小の作文とは少し趣が違う。方言の面白さは同じであるが、地の分が、ですます調ではなく、小学3年にしてはえらく大人びている。漢字も多い。
内容は面白い。弁当を山の神様に本当に上げたのであるが、ちっとも食べないのでオカズがないからか、と思ってオカズもあげたが、やはり食わないので自分で食べた。というのは笑える。

注目すべきは弁当の内容である。白飯組の二人だってオカズは片やイワシ、片や漬物。混ぜ飯の自分は味噌漬けというから遠足にしてはえらく質素である。土々呂の方がかなり恵まれている。しかし粗食にめげずに紅葉を楽しんでいるところがなかなか渋い3年生たちである。
今のガキどもにもそんな弁当を食わせてみたい。とエラそうに言う私もそんな粗末な遠足弁当の記憶はないのであるが。

現在88歳の義父は諸塚村の人である。聞いてみたら、小学校の遠足に特別な弁当を持っていった記憶はないという。せいぜい握り飯というから上野の子供たちと変わらない。普段の登校でも弁当はまぜ飯どころか、イモしかなかったと。恥ずかしいから教室では食わなかったという。盆と正月、それに運動会くらいで白米が食えるのがうれしかったという。

まぜ飯、というが私は幼い頃、米・麦半々くらいの麦飯を食った記憶がかすかにある。ちょうど池田首相が「貧乏人は麦飯を食え」と言った時代である。しかし、昔のまぜ飯というのはたとえば稗8:米2、あるいはトウモロコシ8:米2、それにイモを加えたくらいのものだったようだ。パサパサしてなかなかノドを通過しにくい代物。いまネットでまぜ飯を検索するとこぎれいでおいしそうな写真ばかりが並ぶが、昔のまぜ飯は日本の貧民の悲しい記憶なのである。

べんたう    戸高 崟

「しげとし君、べんたうは、どこでたぶるかい」
「かやの所でたぶだ」
「うん」
行つて見ますと、すみよし君と、みくに君がゐました。そこにすはつてべんたうをたべました。
すみよし君「たけんかはに、つつんでこんきじやい」
みくに君「うちには、たけんかはがねき、つつんでこんわい」
僕 「おまひたちは、べんたうを、いくつ持つて来たかい」
みくに君 「にぎりめし二つに、だんご一つ」
僕 「すみよし君な」
すみよし君 「にぎりめし二つ、おまひは」
僕 「おんどんも二つ、しげとし君ないくつかい」
しげとし君 「やつぱ二つ」
すみよし君 「みくに君な、もう一つくたわい」
僕「おりも、もう一つくてしもたぞ」
しげとし君 「みんなはえね」
僕 「おんどんな、もう二つめの、はんぶんをくてゐるちやが」
ながもり君が来て、さうだうをしてゐた。
ながもり君 「もうべんたうをくてしもたぞ」
しげとし君 「おどんな、ここにねて、しを書くぞ」
僕 「一ばんさきに、べんたうのしを書くぞ」
そのつぎには、もみぢをかいた。


のどかな会話が韻を踏んでいるようで印象深い。
遠足の目的は詩を書くことにあるようだ。すごい遠足ある。

下:上野の商店街。

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山村の子供の綴り方  宇納間

  • 2011/07/16(土) 01:31:32

土々呂、門川は漁村であるが、大正時代には鉄道が通ったのでまだしも文明の流入は早い。田舎とはいえ宮崎県では綴り方教育で先進的な実績を残した。
さて、山間部ではどうだったんだろう。80年前の宮崎県の山間部といえばそうとう不便な僻地であったはずだが、立派な成果を上げている。結局は教員の熱意次第。
これも菅邦男氏「綴方教育と赤い鳥」から引用。

まずは門川町の隣、北郷村(現、三郷町北郷区)から。北郷は現在では道路改良で門川から車で1時間もかからないが、昔は孤立した山村だったはずだ。昔から宇納間地蔵尊で有名である。
役場のあった中心部から1kmくらいの所に北郷小があり、下の作品の少女はさらに5kmほどはなれた入下分校の生徒。
宇納間地蔵の祭りに母に連れて行ってもらったことを書いている。彼女の家は分校のある国道沿いからさらに3kmほど谷筋を分け入った轟内谷(土々呂内谷)であるから、家から宇納間地蔵まで8kmを歩いていったことになる。

下:五十鈴川が北郷村を東西に貫く。


おぢぞうさん

田村ハツ子   北郷尋常小学校 入下分校2年  前田彦太郎先生指導

 この間おかあさんと おぢぞうさんまゐりに行きました。かずちやんとこに行た時にはかずちやんどもはもう行てしもておりました。それで 私たちはいそぎました。けれどもおひつかんでした。その日はふるの正月二十四日でした。村に行たおりにはまだ人がいきよりなさいました。そしてくみやいによつてみよちやんがたびをかりなさいました。その時くみやいには高いバスがとまつてゐました。私は「あのバスにのりたいなあ。」と思ひました。そしておかあさんに「自動車にのつていこや」といつたらおかあさんの「のるといんま三十銭やらんならんぞ。」といひなさいましたからのりませんでした。
 うなまにいきついたら人がたくさんゐました。私はそれを見て「あらあんげ人が集つとるが足にのぼられはせんどかい」と思ひました。私はおかあさんのたもとにとづいて人をせりわけせりわけしてあるきました。人が私の足にのぼつたりしていたいでした。にんぎやうくわしやあそびどうぐやゑ本やよきやなたやはさみや色々なものがありました。それからおぢぞうさんにまゐりました。上の方に上つて見るとおそろしいでした。おかあさんはかねをかんかんとたたいておがみなさいました。それから下へ下りました。おじるおりにはおもしろくて私はどんく下りました。
おじつて私はおぢぞうさんのおもちやをかつてもらひました。それから一寸ばうしのおるとこに行つて見ました。一寸ばうしは小さくてあたまが大きくてあたまは、はいからにしてせがひくくてこえてゐました。それでもみよちやんが泣くからいつときしか見てゐませんでした。それから外へ出た時にはぜには十銭か十五銭かでした。それからおかあさんとうなまのすえをばさんとこに行きました。そしてばんになつてくわつどう見にいきました。一ばんあとがよいでした。男の人と女の人がだんを下つて来よりました。そこには大きな木があつて その前に人が一人か二人かしんでゐました。その男の人はおそろしくてめんめ方ににげていにました。女の人は木になんかかつて下を見たらおずしてこしぬけがして逃げていきをした。そしたらあたまの毛の長いからだがまがつた男の人がとぐちをあけて女の人を出しました。そしたらその人が「何もおらんが」といつてさがしました。
 そのばん私はすえをばさんとこにとまりました。さうして朝になりました。私とおかあさんはみせのにつきに行つていつときあそんでいにました。いぬる道でおかあさんはやくばによりなさいました。やくばから自動車にのつてかへりました。その日は私はけつせきしました。


※ふるの----旧の
※おじる----おりる、のことか。
※なんかかって-----寄りかかって

敬語の使用のみならず漢字も多く、とても尋常2年とは思えないほどだ。入下分校には1・2年しかいなかったというから本当に2年なのだろう。土々呂の木村学級の児童顔負けである。
終盤、映画の場面は例によって意味不明。一般に子供には映画の感想は難しいようだ。

普段は変化に乏しい山間の僻村。年に一度の祭りに行く。入下から見れば宇納間だって都会に見える。さらに普段見たこともない大勢の人間、露店、見世物。さらには屋外の臨時スクリーンの活動写真。自動車にも乗った。それは特筆大書すべきイベントである。今、田舎の子がディズニーランドに行くより大事件であろう。
延岡大師もそうであったが宇納間地蔵も刃物商の露店が多かったようだ。山村の人々にとって刃物は仕事の必需品。
「一寸ばうし」とは、小人症の人のことか。昔は見世物になっていたものだろう。

下:宇納間地蔵大祭昭和37年。 右は現在。


下:参堂階段から宇納間地蔵の町を見下ろす。


下:彼女は地蔵のおもちゃを買ってもらった。はたして子供に楽しいおもちゃなのか?? ちなみにこれは胎内に願かけの紙を入れて奉納するためのもの。500円。

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「赤い鳥」 と門川

  • 2011/07/14(木) 13:16:06

赤い鳥には門川の草川小からも5編ほど掲載されている。
昭和6年前後、ほぼ木村寿が土々呂にいた頃、草川小には綴り方教育に取り組む教師グループがあった。校長も協力的であったというから、孤軍奮闘の木村の場合と異なっている。

下:昔の草川小。


柴田清一、加藤亮一、平田宗俊の3名の教員を中心として「草川文苑」という学校文集があった。つまり学校全体としての取り組みだった。土々呂も当時は東臼杵郡伊福形村であるから田舎であったが、門川はさらに田舎である。当時の宮崎県では東臼杵の郡部、山間部で先進的な事例が見られるというのも面白い。

「赤い鳥」からまず、詩を1編。

草川小学校   尋常四年   金丸 実 (昭和6年)
 
しづかな夜(佳作)

しんとした夜、
まつくらな夜、
たれも通らぬ
まよなかに、
お父さんのさけのむ
とうふかひに、
まあるいまあるい
あかぜにを
五つもつていつたんだ。


詩の力によって明確なイメージを読み手の脳内に醸成させてインパクトを与える、という点から見るとほとんどプロ並み。北原白秋なみ、と思うのは私だけか。絵心のある人ならその情景を絵に描きたくなる。1銭と言わずに「あかぜに」というところもいい。当時の1銭は昭和30年代、40年代の10円と同じくらいのイメージらしい。大きさ色合いも同じ。
昭和レトロ世代は先刻承知であるが、若い世代のために。昔、豆腐を買いにいくには容器を持参した。ノビタは豆腐をナベから落とさぬよう用心して歩いている。実はノビタ昭和35年の生まれ。


木村の土々呂小は低学年だったが、草川では高学年の作文がある。牛の出産をめぐる家庭の様子を描く。昭和6年。

牛の子    草川小学校 尋常6年 松井シズエ

 学校の門を出た。やがておやすをばさんの家のきどへ来た。私とみんなとさようならをして、たんぼ道を通ってすこしさかを上がって行くと、家のおばあさんがきどへ出てゐて、「だい、よい、だい、よい。」と向こうの方をむいて、しきりにさけんでゐられた。
私は何ごとかと思つて、「なんの。」と言ふと、おばあさんは私の言つた言葉をほつたらかしておいて「あら、だいをぢさんぢやろうが。」と指さして言はれた。おばあさんは目がよく見えない上に、だいをぢさんのをられるところは遠いので、はつきり、だいをぢさんといふことはわからない。私はだいをぢさんと言ふことを知らせておいて家へかへつた。
家へかへつて見ると、思ひがけないことにおどろいた。今まで腹が大きかつた牛が、急に悪くなつてゐた。家には守をぢさんや、ほかの人たちが、二三人きてをられた。
すぐに本をおろしておいて、牛小屋にいつた。牛は苦しさうにねてゐた。さうして、苦しいいきをして、目をつむつたり、あいたりしてゐる。そのやうすはいかにもかはいさうである。お父さんが、「よんべ、まるべにひつぱつていたつちやが、そしたな、橋がぐわたつッたが、ありたまがつて、とび上つたつちやが、ちりが、おけたつちやねが知らんわ。」と心配さうな顔をして言はれた。
やがて、おばあさんが、だいをぢさんをつれてかへつてこられた。だいをぢさんはきどの方から、「どんがらこつかい。」と言ひながらこられた。おばあさんは、牛小屋をのぞいて、心配さうな顔で、「おりやも、知らんどへ。見ちやをらん。」といつて向うの方へいかれた。やがてお父さんが、「きゆうひよかつと、ちゝが大こななつたつちやが。」といはれた。ちゝが大きくなると子がうまれるのです。私は子をうむとき、死にはしないかと心配して、いつまでも家へをつた。するとお父さんが、「わりや、はよ、子守にいかんか。いま、いも植ゑぢやから、せわしとど。」と言はれたので、ほんたうだと思つて出かけた。
おきまをばさんの家へいつて見ると、だれもゐなかつた。どこもこゝもさがしてまはつたが、をらない。私は牛が心配になるやら、書方を書かうと思つてかへり出した。かへるとき、ちようど、あきのさんが、私の家へあそびにいく途中でした。それでいつしよにかへつた。
かへつて見ると、家には大ぜいの人たちがきてゐなさいました。牛を買ふぱくりようさんもきてゐて牛を見てやつてゐなさつた。私がいつてみると、牛が子を生みかけてゐた。おばあさんが私に、「わんだ、見るもんじやねど。」と言はれたので、足をあらつて書方かきにとりかゝつた。やがてするととつぜん、ぱくりようさんが、「あゝ、うなめじやうなめじや」とさけばれた。それといつしよに、をとなの人の口から「うなめじや、うなめじや。」「酒を一しよ、とらんならんど。」といふこゑがきこえた。私はうれしくて、むねがをどつた。


※まるべ-----マルバエのことではないか
※ぐわたつッた-----ガタッといった
※ちり-----発作
※ばくりょう------博労
※うなめ-----メス
※一しよ-----一生

やはり地元の人間には方言が面白い。
さすがに今ではあまり聞かれない表現が多い。

もう1編、漁船の遭難を描いた作品。「赤い鳥」昭和7年掲載。

  ながれ舟(佳作)

         尋常四年   朝倉コトリ

二三日前のことであつた。私たちがぬくたもりでおかあさんやみどりさんのうちのおかあさんたちとぬひものをしてをると、急に風がはげしくなつて来て、海の水は冬の寒い風の日らしくなつて来た。
おかあさんたちは、いかつり舟がおきの方へ出てゐましたから、心配せられた。私が沖をふり向いて見ると、小さないかつり舟は村へひきかへしてゐましたが、叉もとをつたばしよへあとがへしてゐました。
それからいつときたつと、さんぢをぢさんが山から両眼鏡をもつて走つてこられた。さんぢをぢさんは、両眼鏡でしろけむりの立つてゐる沖を見ながら「あらだりかしらん。」とつぶやいてゐられました。するとどこからか、三ぞうのちがつた舟が一しよに波にのまれさうに島に向つていきました。さんぢをぢさんは、なほもよく見てゐられましたが、「あらひつくりかやつた。」とさけばれると走つていかれましたが、「あんちやん、あんちやん」とおどろいたやうにして、みどりさんのうちのおとうさんをよばれた。すると、上の方の道からかけおりてくる音がしたので、私が土を見ると、みどりさんのおとうさんである。をぢさんが、「いまどこんとかしらんが、舟がひつくりかやつたわ。」とおつしやると、おどろいてすぐに「どこか。」と目をまるくしてみわたされた。「あしこだ。」と大きなこゑでいはれたかと思ふと、すぐに、「わんどま、はよいんで、きかいせんをやれ。」と私のうちのうら山に目白とりに来てゐた子供にどなられた。六人の村の子供は、だまつて返事もしないので、しかたなしに、さんぢをぢさんは、はしつて村へしらせにいかれた。私も一しよに走つて家へかへつた。おとうさんは、かまとわらを持つて、うちをでようとしてをられましたので、私が、「あんの、今、舟がひつくりかやつた。」といふと、おとうさんはびっくりして、「どこぢや。」といはれた。「あしこん、じようきが入つとこん、西の方にしまがあるがやの。」といふと、ひきかへして、「いかにやならん」といつて、かまやに、いそいではいられた。するとおしつなから、きてゐられた、こさをぢさんが、「ふねのりがをんのや。」とたづねられたが、みんなをられないので、「ふねのりがをらんわね。」といひながら、又私たちがもとをつたところへはしつていかれた。
私はそのとき、まあ、あの人にだれもたすけにいかなかつたら、あの人はもう死んでしまはれるだらう、かはいさうだな、とおもひく家にはいりました。けれども心配でく又もいつてみました。ちようど私がいつたはないに、おしき舟をこぎになやのをぢさんところの、五十ばりきのきかい船が東の方をむけてはしつていきました。おとうさんは、「いけだんてやが。おしきぶねを、たすけにとぢやん。ありがたいな。たいがい、いのちには、せやわねわ。」とおつしやつた。
いつときたつと、おかあさんがこられたので私が「今、おしき舟むけにいけだんとがいた。」といふとおかあさんはおとうさんに、「おまや、はよ、やしんはまによぞが着物をもつていらつしやい。」といはれた。すぐにお父さんはうちへかへつてねえさんに「ひつこみから、あんちやんが着物をもつてけ。」といはれた。ねえさんはすぐに二枚もつてきてもたせてやりました。おとうさんはほかぶりして、うちの向うの坂を走りあがつて行かれた。ちようど犬きな池のあるところに行つたら、向うから、二人だれかきて、おとうさんに、「おまやどこにいくとの。」といはれると、「おしきのもんに、きものをもつていつてやりよつとよ。」といはれた。その人が、「もうおしきは、くぢ、いによるばい。」
と言はれると、父はひつかへしてかへつてこられた。そしてしばらくたつてうちの前を通つていかれた。
私がかないそうの方に行くと、さつきの舟の一そうは、さきの方からだんくとしずもつてゐた。そのとき兄さんたちは、はつどうきにのつてゐたさうである。又ほかの小さな舟は、水くみが一しやうけんめいであつたさうである。
あとで友だちの話をきけば、みんなかやつたのは十そう、そのふねにのつてゐる人は、十五人だつたといふことで、そのうち一人はなくなられたといふことである。たすかつた十四人は、赤水や細島から汽車でたいがいかへつてこられたさうである。
私はあの一人の人は海の底のどこかに死んでゐられるであらうとおもふとぞつとする。


※かないそう-----金磯

会話のなかの方言は私でもわからない語がある。地名と思しきもあるが、よくわからない。大事件をめぐる集落の人々の緊迫感を描写しているが要を得ていない所があるものの、鈴木三重吉からは好評価を得ている。4年生でこんな長い込み入った事象を描けるというのがたいしたもの。

下:金磯から乙島を望む。

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