宗教との戦い---ドーキンス--その3 妊娠中絶

  • 2011/10/29(土) 13:16:49

前回エントリの続き

ドーキンス「神は妄想である―宗教との決別」より

前回も記したように、キリスト教ではカトリックもアメリカのファンダメンタリストも妊娠中絶に厳しい。受精は神の恩寵であり受精した瞬間から受精卵や胚は人間の生命なので中絶は殺人、という立場。それがレイプでできた胚であろうが、ダウン症の染色体を持っていようが例外は認めない。
さらには避妊も否定するとなると人口調節自体が悪となる。今や70億に達した地球人口が200億くらいになってどうにもならなくなった頃、カトリック教会はやっと自身の誤りに気付くだろう。天動説を数百年後に誤りと認め、ガリレオに謝罪した件ではさほど実害はなかったが、人口問題については100年後に気付くようだと遅すぎる。福島の原発よりもはるかにひどい実害が出る。無責任のきわみであるが、宗教者は神を持ち出せば個人の責任は回避されると信じているようだ。

ドーキンスはこの件ではマザー・テレサをこっぴどくこきおろしている。マザー・テレサはノーベル賞受賞講演でこう述べた。「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」
ドーキンスは「このような偏った判断力しか持たぬ女性がどうして真面目にノーベル賞に値すると考えられのだろうか?」と書き、彼女を「聖人ぶった偽善者」と断じ、彼女に騙されたくなかったら、クリストファー・ヒッチング著「宣教師の立場」を読むよう薦めている。ちなみにこの本の原題は"Missionary Position"といいそれはダブルミーニングで「正常位」をも意味するから実に辛辣なタイトルである。

ノーベル平和賞の人選は納得のいかないことがままある。科学者の場合にはもともとなじみの無い名前ばかりだから妥当なんだかどうだかサッパリわからないのであるが、平和賞の場合には時々有名人が受賞する。たとえば佐藤栄作、ニクソン、カーター、ゴルバチョフ、オバマなどは「ええっ?彼はいつ平和に貢献したんだぁ?」と違和感を感じる。さては非有名人の場合にも同様の怪しさがあるのかもしれない。マザー・テレサは中学の英語教科書に載り私も「何か知らんが、エライ人、立派な人」というくらいの認識であったが、私はノーベル賞選考委員会の見識よりもドーキンスの方をはるかに信用するので、マザー・テレサに関しても認識を改める必要がありそうだ。



欧米のキリスト教徒は宗教がないと道徳の基準が無い、と考えるらしい。そこから「日本人はどうやって善悪の基準を判断しているのか?」という疑問を呈する。アメリカで宗教的な情操がモラルの基準となっているのを見た新渡戸稲造はそれに換わるものは日本では武士道である、と考えた。しかしキリスト教も武士道もイスラム教もない世界各地で人類は似たようなモラルを持つのである。殺人、窃盗、詐欺、姦淫などは宗教に関係なく良くないのである。ただしモラルは「時代精神」の産物だから時代とともに推移し、変化はより人間的な進歩的な方向への遷移を遂げている。宗教は「時代精神」の変化、科学の進歩をはるか後から後追いしているだけである。地動説、進化論、人種偏見、女性蔑視、基本的人権などなど。

ドーキンスはさまざまな角度からキリスト教の不合理を論じている。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の共通の聖典である旧約聖書についても分析している。
旧約にはさまざまな物語や逸話が出てくる。現代人の常識から見ると、神によって選ばれたはずのアブラハムやロトの行為ははなはだしいインモラルに満ちている。それを求める神もかなりの気まぐれで狭量で一貫したモラルを持っているようには見えない。聖書は随所で現代でも規範足りうるモラルを説いているのであるが、首をかしげたくなるようなインモラルも同様に説くのである。特に女性蔑視がひどい。

だから聖職者は聖書から現代のモラルに合う部分を引いてきて「聖書にもこう書いてある」と説くわけだ。しかし、彼が聖書からどこを引いてくるか、と判断する時にすでに聖書に依拠しない別のモラル基準が介在せざるをえない。彼らは聖書の都合の悪い部分は「それは象徴的表現であって事実として考えるべきではない」と反論するが、ではどこが事実でどこが事実ではないと判断する基準はどこにあるのだろうか? またしても聖職者たちは聖書に依拠しない別の高度な判断基準を参照している。自分でその身勝手さに気付きもしない。

聖書は古代説話のアンソロジーに過ぎないので一貫性もなく後世の誤記や創作も多々ある。それを絶対的な真理とすること自体に無理があるのであるが、聖書根本主義は聖書の一言一句が真理である、とするのであるからジレンマを抱え込むのである。ドーキンスはことさらに聖書を有難がる人こそ聖書を通読していないのではないか、と言っている。

ドーキンスは神のいない理由もくどくどと書いている。
これはエホバのエントリで既述であるが採録。

創造論の論理。目の構造はいかなカメラも及ばないほど精密で優れている。ちゃちなカメラですら設計者がいるのであるから目が設計者なしで自然にできる訳が無い。すなわちそこに創造主がいるのである。この例の目は心臓でもトンボの飛翔力でもミトコンドリアのエネルギー変換でもなんでもいい。※ただし神は設計ミスもするらしい。網膜で受け取った光の情報を脳に伝える視神経や網膜血管は網膜の上ではなく下に配置すれば眼底出血による障害を防げたのに。カメラで言えばCCDの表側にプリント配線を施す様なもの。初歩的な欠陥である。これがカメラや自動車だとリコールの対象になるのだが。

ドーキンスの論理。宇宙の天体を管理し、地球上何千万種の生物を設計し、全キリスト教徒何十億人の日々の祈りや願いに耳を傾け、彼らの運命どころか、地獄行き非信者ご一行様ツァーの手配にも心を配るといった世界最速のコンピュータもなしえないような複雑な計算を四六時中なしえるとすれば、そんな存在はきわめて複雑な存在でなければならない。目のような複雑な構造が自然にできない、と考えるならば神のようなさらに桁違いに複雑な存在もまた自然に発生することはありえない。そこには神を創造したのは何者か?というさらなる疑問が退行的に連鎖するだろう。

下:エホバの「生命-それはどのように存在するようになったか」より。目の構造の巧妙さは彼らの創造説の重要な論拠なので必ず取り上げられる。


ドーキンスは宗教がいかに発生したか、という点でもさまざまな考察をしている。詳しくは本書を参照して欲しい。
宗教が発生する現場の記録として、カーゴカルト(積荷信仰)の例を上げている。デイビッド・アッテンボローの「楽園の研究」を典拠として述べている。
カーゴカルトとは西洋文明と出会った未開人が白人を神の使いと見たり、船や飛行機から搬出される文明の利器が神からの贈り物であると解釈したりするところから生まれる信仰である。未開人にとって彼らとは隔絶した進歩をとげた文明や文明の利器は魔法や神業としか理解できないから、それも無理はない。
ニューギニアをはじめとした南太平洋一帯で19世紀から第二次大戦期にかけて多数のカーゴカルトが別々に、それぞれ独立的に発生したが、どれも似たような経過、形態を持ったという。すなわち新たな信仰はたやすく生まれるということ。
現在大勢力を誇る宗教も発生時にはごく小さいグループの怪しいカルトだったりするわけだ。天理教なんかはそのような来歴がはっきりしている大教団の代表ではないだろうか。キリスト教だってイエスの頃は似たような小さなカルトだっただろう。

下:カーゴカルトでは飛行機や滑走路の模倣品を作る。
滑走路脇には管制所もどきの小屋を作り、木で作ったヘッドフォンの模倣品を着用して踊ったりする。どうやら原住民たちは太平洋戦争時の米軍の巨大な物量に「神」を見たようだ。日本軍の物量は乏しかったからなぁ。


この本に限らず、ドーキンスは子供への宗教の押し付けがいかに害悪かを訴える。

日本ではどうだか知らないが、多民族化が進んだイギリスではキリスト教の子供、イスラム教の子供、ヒンズー教の子供が学校で同席することは珍しくない。ドーキンスはこの「〜教の子供」という考え方を問題にしている。「〜教の子供」というところを例えば「マルクス主義の子供」「ケインズ主義の子供」「無神論の子供」「不可知論の子供」などと置き換えてみた時には誰しも異様である、と考えるだろう。幼い子供がそんなものを理解したり、良し悪しを判断したりできるはずがないからである。宗教だって同じはずである。しかし宗教の場合は例に挙げた「〜主義」と違い、大人が強引に注入することに社会が異議を申し立てない。宗教が社会の中で何らかの奇妙な特権を持っている。少なくとも日本ではキリスト教を標榜する学校は許されてもマルクス主義を基本理念とする学校は許されないだろう。

そもそも子供と言うものは親や年長者の言うことを素直に聞く、という進化的な適応をしている。太古、危険に満ちた自然の中で暮らした初期人類社会で、親の言うこと、長老の言うことを聞かないような子供は危険に直面し淘汰されて子孫を残しにくかった。その結果、親の言うことを素直に聞く子供が生き残る傾向がどんどん強まった。現在の子供がみんな大人のいいなりになるのはそのためだ。

宗教的環境で育つ子供は素直に宗教を受け入れる。それが世代から世代に受け継がれていることが大宗教の存在を支えている。子供を宗教から遠ざけ、成人以降に自分で思想や信仰を選択できるようにすれば、宗教は一世代か二世代もするうちに急速に縮小するだろう。ドーキンスもうらやむそんな理想的な非宗教的環境は意外と日本にあるのかもしれない。

豊臣・徳川・明治政府とキリスト教に不寛容な政権が300年も続き、欧米の植民地にもならなかった日本は一神教の影が薄い。今となってはこれは幸いであった。

追記2012年8月9日
このエントリに一件のコメントを頂いた。
が奇妙なコメントなので返答ではなく、ここで一言。
コメントはマザーテレサの業績とコメンターの私見を述べたもので、私のエントリに対する何らかの評ではない。調べてみると、このコメンターは多くの方々のブログでマザーテレサへの言及があるところに全く同じコメントをコピペで投稿している。こうなると一種のスパムという感があるのであえて返答はしない。キリスト教関係先にスパムを送る有名人、あるいは迷惑人らしい。








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宗教との戦い---ドーキンス--その2 ラプチャー

  • 2011/10/28(金) 02:03:48

※ 前回エントリからの続き



上:ドーキンスの著作、「遺伝子の川」「ブラインド・ウォッチメーカー」。だいぶ前に図書館で借りて読んだ。現在はアマゾンの古書で安く買える。両方とも150円ほどであった。こんな名著がこんな値段で。ありがたい時代になったものである。

ドーキンスの近年の著作には宗教を扱ったものが多い。
『虹の解体-いかにして科学は驚異への扉を開いたか』『悪魔に仕える牧師』「神は妄想である―宗教との決別」など。
『虹の解体-いかにして科学は驚異への扉を開いたか』はあちこちに書いたエッセイなどを集めたものであまりまとまりがないが、「神は妄想である―宗教との決別」は書き下ろしの大著である。各国で売れて100万部を越すという。英語圏の人口が多いとはいえ、こんな本で100万部というのは驚異的。

ドーキンスは進化論学者として永年「創造説」と戦ってきた。日本ではキリスト教人口がそもそも1%未満であり、その中でも頑迷な創造論者はエホバなどの少数派で、社会問題になることはない。しかし欧米、とりわけアメリカでは「創造説」は科学技術の進歩と無関係に頑強な地盤を保持している。彼らはその宗教観をもって俗世に強力に干渉してくる。学校教育への干渉、キリスト教の故地であるイスラエルの擁護、中絶反対運動など。グールドやセーガンと同様にドーキンスも創造説にかかわらずにおれない。

ドーキンスは「神は妄想である―宗教との決別」ではさらに一歩踏み込んでいる。世界人口に占めるキリスト教徒の中では少数派である聖書根本主義(言い方を変えればキリスト教原理主義であって、イスラム教原理主義と相似)の批判にとどまらず、主流派であるカトリックやプロテスタントを含む穏健な宗教をもバッサリと切り捨てている。そもそも宗教自体が人類にとって害毒であると。昔マルクスは「宗教はアヘンである」と言ったが、ドーキンスはそれをさらに詳細に敷衍している。
ドーキンスは「この本が私の目論見を果たせば、宗教的な読者も本を閉じた時には無神論者になるだろう。」と述べている。「ただし骨の髄までしみこんだ信仰の持ち主は議論に左右されない。彼らにとってこの本は悪魔の著作であるから、宗教指導者はそもそもこの本を読むことを避けるよう指導するだろう」とも言っている。

ドーキンスがこの書で論じる宗教は主にキリスト教であり、キリスト教と同根であるユダヤ教、イスラム教である。これらは旧約聖書を共有し、一神教であり、他の神を極端に憎悪する。それぞれが一神教なのだから当然同じ神のはずであるが不思議と仲が悪い。ドーキンスはもっぱらこれらについて考察し、仏教や儒教については宗教というよりは哲学や処世訓に近い、として考慮の外に置く、と断っている。

なるほどそうかもしれない。幕末、訪欧使節団としてヨーロッパを訪れた福沢諭吉ら日本の武士たちは、ヨーロッパ人のいい大人が、「マリアの処女懐胎」や「キリストの死後の復活」などという馬鹿げたたわごとをマジメに信じているのに驚いたという。儒教が教養であった江戸期の武士たちは「子は怪力乱神を語らず」という孔子の教えにより、奇跡や超常現象を思考の前提から排する合理的な考えに立っており、奇跡を根本教義に持つキリスト教は異様に見えたものだろう。

ドーキンスの論考は高飛車な宗教たたきではない。条理をつくし論理を重ね、事例を挙げて現代社会で宗教がいかに不合理で非人間的なものか、いかに人類に不幸をもたらしているかを説く。個々の信者や宗教者が悪意ではなく善意と理想を持てば持つほど悲惨な結果を招いているかを論じる。
バーミヤンの石仏の破壊は真摯なイスラム教徒であるタリバンにとっては偶像崇拝を忌み嫌う神意に沿うもので悪行どころか善行である。そもそもあの石仏の顔は大昔にタリバンの祖先たちによって破壊されていた。タリバンはそれを近代的爆薬で完遂したに過ぎない。

9.11もそうである。彼らは神意を挺して世界貿易センターに突っ込んだのである。彼らは殉教者になることを欲した。日本の神風特攻隊の若者たちが決して過激派でも狂人でもなかったように、9.11の実行者たちも真面目で真摯な若者たちであったろう。自爆テロに走る若者たちは宗教指導者の「行ってこい。明日お前は殉教者として天国にいる。」という言を信じて従っているだけである。不思議なことにその宗教的長老達は自分では天国行きの特急列車には乗りたがらず、春秋に富む若者を乗せたがる。ドーキンスは言う。西側の政治家は「テロとの戦い」と言ってその本質が宗教との戦いであることを避けているが事態の本質は宗教である。

穏健なイスラム教多数派は「おれ達はあんな過激派とは関係ない」と抗弁する。宗教的過激主義は宗教のおぞましい変種や鬼っ子ではない。その宗教的土壌のなかでよりピュアな先鋭的な分子が醸成されるのである。宗教の教理をより強く理想主義的に信ずればこそ、殉教者たらんとする若者が出てくるのである。
それはキリスト教も全く同じ。アメリカにはタリバンに劣らずピュアな、換言すれば凶悪なキリスト教原理主義がはびこる。


上:ドーキンスの「神は妄想である―宗教との決別」とグレース・ハルセルの「核戦争を待望する人びと」

いささか古いが1989年の朝日選書、グレース・ハルセル著「核戦争を待望する人びと」という本がある。「聖書根本主義派に潜入記」という副題がある。アメリカの聖書根本主義派の人々とともにイスラエル旅行に行くルポである。彼らにとってイスラエルは神の土地である。読むにつれ彼らがいかにハルマゲドン(核戦争)を待望しているか、という狂気の様子に驚く。その後の冷戦の終結で彼らの論理がどうなったのかは知らないが、そんなことでくじけるようなやわな信仰ではない。今はネット上に彼らのサイトがたくさんある。「ラプチャーレディ」(RAPTURE READY)でググルとたくさん現れる。英語の読める方は試しに下のサイトを見て欲しい。ラプチャーとは「天国移送」「携挙」のこと。
http://www.raptureready.com/

彼らはハルマゲドンを夢見ている。異教徒、無神論者、ゲイのはびこるこの腐りきった地球は業火に包まれ、神に選ばれた者だけが、人類がのたうち苦しみ死んでいくのを「ザマァ見ろ」と笑いながら高みの見物して天国に移送される。そう本気で信じている。まぁ、私だってたまには「憎たらしいあの人やこの人やあの宗派やあの政治家やらに」天罰だか仏罰だかが下って欲しいと妄想することが無いではないが、昼日中から人前で口にする、というほどではない。アメリカにはそんな人々が大勢いて、それがマジメな生活者たちで政治的影響力を持つというんだから、そら恐ろしい。彼らは中絶する医師を襲撃するという実力行使だってする。

ドーキンスが引く中絶反対運動派の面白い都市伝説。
二人の医師が対話しているとしよう。
「妊娠中絶について、意見を聞かせて欲しい。父親は梅毒で、母親は結核。4人の子供が生まれたが、最初の子は目が見えず、二番目は死に、三番目は耳が聞こえずくちもきけず、四番目はやはり結核だった。(五番目の妊娠について)君ならどうする?」
「私なら、中絶させていただろうね」
「だとすれば、君はベートーベンを殺してしまったことになる」

これには子供の数や障害についてさまざまな変種があるという。うっかりするとこのようなたとえ話で妊娠中絶がいかにも悪いことのような錯覚におちいる。冷静に考えればこのレトリックはすぐに底が割れる詐術であることに気付く。そもそもベートーベンは長男であって父親は梅毒ではなく、母も少なくともベートーベンを出産したときには結核ではなかった。昔は結核は普通の死因だった。子供の頃に死んだ姉がいたがそれとても全く障害はなかった。だからこの話は全くの作り話である。
さらに、中絶によって失われる胚や生命は、避妊、人々がたまたまサボった夜の営み、禁欲により失われた性交の機会、妊娠初期に気付かれず流れる胚などに比べればごくごく少ない。もしかすると我々はあの晩サボったお勤めや聖職者たちの禁欲によってモーツァルトやゴッホやアインシュタインをさらに上回る多数の才能を失った可能性がある。逆にあのとき中絶さえしておれば人類はヒトラーやスターリンやカダフィやビン・ラディンの出現を防げたとも言える。

ドーキンスが紹介するアメリカのゲイ追放運動の論理。
「ゲイの存在はあなた方に何も迷惑をかけていないのになぜ追放運動をするんですか?」
「神がゲイに天罰を下すとき、この町全体が道連れになるのが困るからです。」
どうやらソドムの市が劫火に滅んだことが念頭にあるようだ。ドーキンスは神がなぜ標的を絞って対象者個人を心臓発作などで殺すことができないのか疑問を呈している。アメリカ軍だってアフガンやイラクでは道連れ被害を最小限に防ぐ方法でピンポイント爆撃をする能力を持っている訳だから、神の技術水準は1960年代の核攻撃レベルで停滞しているようだ。

下:ラプチャーレディから取ってきた壁紙。あまり恐ろしくない。マタイ伝の章句が書かれている。


原理主義宗教一般の怖さの一因は彼らが神を至上の物として世俗の法や道徳の上に置くことにある。人類どこでも殺人は犯罪である。しかしそれが神の命令なら善になるのである。かくてテロリズムはジハード(聖戦)になる。
統一教会のメンバーがあんなに悪辣な霊感商法をなぜやれるのか? 彼らも個々には敬虔な信仰を持つだけなのだが、サタンの側から神の側へお金を奪ってくるのは正義である、という論理でどんな違法行為でもやってのけられるだけなのである。世間と道徳の基準が異なるのであるから、彼らが悪事を恥じたり反省したりということは絶対無い。
信仰者が宗教や神に忠実であればあるほどとんでもないことをする、というのは外国の例を持ち出さずともオウムで日本も経験した。

(この項、次回エントリに続く)



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創造説との戦い---グールドとドーキンス

  • 2011/10/21(金) 01:01:56

図書館の生物関連の棚ではスティーブン・J・グールドのエッセイシリーズが面白げなタイトルで並んでいる。「マラケシュの贋化石」「パンダの親指」「ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語」「八匹の子豚 種の絶滅と進化をめぐる省察」などなど。アメリカの科学雑誌『ナチュラル・ヒストリー』誌に連載されたエッセイを集めたものだから気楽に読めて面白い。最近では10月2日の朝日新聞書評欄に福岡伸一が「ぼくは上陸している」(早川書房)を紹介している。最新刊だが死後9年目に日本語訳が出たことになるから10年以上前の本。福岡は個人的にドーキンスよりグールドのほうが圧倒的に好きだ、と言っている。そう、読み物としてはグールドのほうが絶対に面白いだろう。生物学をめぐる面白いトリビアに満ちている。

下:スティーブン・J・グールド


グールドはアメリカを代表する進化論学者であるから、アメリカで強力な基盤をもつ創造論との戦いは彼の業績で大きく語られる。しかし彼は科学と宗教は共存できる、という立場で著書「神と科学は共存できるか?」という著書もある。その「NOMA」という概念や彼の進化論に関する学説「断続平衡説」などの専門的なことについてはウィキペディアを参照して欲しい。前回記したように61歳の学者、著述家としてはまだまだ働ける年齢で亡くなったのは惜しい。先に死んだのでライバルであるドーキンスに言われっぱなし。

前回あげた3人のなかで、存命し活発に活動しているのはリチャード・ドーキンス。イギリスの高名な科学者であるスティーヴン・ホーキングとなんとなく語呂が似ているが、ホーキングは物理学、ドーキンスは生物学。

リチャード・ドーキンス


最初に読んだドーキンスの著作は「遺伝子の川」である。
その論理の鋭さと比喩の巧みさ、創造説への容赦ない論駁などにすっかり魅了された。
彼の代表的著作は「利己的な遺伝子」であるが、この本はやや専門的な部分が多く、素人にはすいすい読める本ではない。

他の著作「盲目の時計職人」(別題:ブラインドウォッチメーカー)が一般向けの進化論の啓蒙書になっている。一般向けといえども、彼の論理が薄まることはなく、切れ味のいい論理とイギリス人らしい皮肉やユーモアも交え、ぐいぐいと引き込む。読み終わったらすっかりドーキンス信者になること請け合いである。(※ただし、久しぶりに再読してみたらけっこう難しくとても一気に読める代物ではない。(
ドーキンス自身も前書きでこの書の狙いはダーウィン主義の解説ににとどまらず、説得ないしは扇動することすら狙っている、と率直に言っている。つまりは創造説と決別しダーウィン説の信奉者になるということである。

まぁ、日本人の大方はもとより教科書で学ぶように進化論をすなおに受け入れているのであるが、それはなんとなくであって、その理屈を理解しているわけではない。だからエホバのような創造説に丸め込まれることもあるわけだ。例えば、我々によく理解できない科学上の問題に宇宙の起源だとか、ひも理論だとかがある。それを理解したくて『ホーキング、宇宙を語る』とかブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する」などを読むのであるが、正直言って読んでもわからんどころか、いよいよわからん、というスッキリしない結果が残る。
しかし、ドーキンスに関して言えば「スッキリわかった!!」感が得られるのである。お薦めする所以だ。

ところでわが国の中学教科書からダーウィンの進化論が消えて10年経つ。高校での理科教育は細分化されていて進化論は必ずしも全員は学ばない。来年の教科書改訂で復活すると思われるので、この10年間に義務教育を受けた世代は進化論やダーウィンを知らない可能性がある。アメリカの創造論者がうらやむ状況である。

ドーキンスは比喩が巧みで面白い例が無数にある。「悪魔に仕える牧師」の中にある人類進化を実感する一つの比喩が印象深い。

下:模式図 ドーキンスの比喩を私の拙い絵で再現。本当はNHKあたりがCGで作って欲しいイメージ。 クリックで拡大

アフリカのタンザニアあたりのインド洋に面した海岸に現代人の女性とメスのチンパンジーを向かい合って立たせる。(上の図右端)それそれの片手には彼女らの母の手を握り、その母たちはその母たちと手をつなぐ。人間の鎖である。上の図でイメージして欲しい。
こうやって人間は人間の祖先たちとどんどん手をつなぎ、チンパンジーは彼らの母から母へと手をつなぐ。その人間とチンパンジーの鎖をたどって海岸から500kmも奥地に入るとまだタンザニア領土であるが、双方から来た鎖は共通の母にたどりつく。(上の図左端)その母は両手に二人の娘の手を握っている。その姉妹は見た目にはほとんど変わらないが、それぞれの子孫たちは500kmの末端で人間とチンパンジーに分かれてしまう。日本に当てはめると東京‐大阪間の距離。
これは1世代をほぼ1mとしているから、500kmで500000m、すなわち50万世代を遡ることになる。およそ500万年という勘定になる。

ドーキンスの論旨は人間とチンパンジーの距離は意外と近い、ということであるが、人によってはえらく遠い、と感じる向きもあるかもしれない。これにしたがって地球45億年の歴史を距離にすると、4.5億mということは45万km。月よりやや遠い。やはり、われわれのご先祖がサルだったのはそう昔ではないのである。えっ?例えれば例えるほどわかりにくい?

ドーキンスはこういう提起もしている。上の図でみると、ここからが人間で、ここからが人間ではない、という明確な境界は引くことができない。進化はきわめて漸進的であるからだ。いきなりサルが人間になるわけではない。ということはチンパンジーを殺すことは我々の親戚を殺すことになり、ある意味で殺人になってしまうから、人類は類人猿を殺すべきではないのではないか?つまり類人猿にも人権があるということ。昔、ヨーロッパの白人は黒人奴隷を家畜として扱い人権を認めなかったがいまでは当たり前に人権がある。南アフリカの黒人に人権がなかったのはつい20年前のことである。いづれ類人猿の人権が認められる日も来るかもしれない。

進化論を理解できない人は、ここまでがサルでここからが人間であるという区切りがあると思っている。そんなものはない。大昔は人間とサルの中間型が存在した時期もあったが現在では絶滅している。ネアンデルタールは2万年くらい前まで生きていたが、現在でも生きているとしたら、人類の発想はずいぶん今と違ったものになったかもしれない。おそらくはなはだしい人種差別があるだろう。「始原への旅立ち--大地の子エイラ」(評論社/ジーン・アウル著)は現生人類とネアンデルタールが共存していた太古を舞台とした小説である。まるでその時代を見てきたかのような説得力のある描写に感心した記憶がある。(現在では集英社版「エイラ―地上の旅人」がある)

次回エントリに続く〉





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創造説との戦い---カールセーガン

  • 2011/10/19(水) 12:21:31

エホバの青年がくれた本、「生命--それはどのようにして存在するようになったか‐‐進化かそれとも創造か」を読んだ時にその中で引用された本や理論を調べるために図書館で本を読んだ。
20年前のことである。

実はそれ以前には科学関連の本を読むことはあまりなかったのであるが、「進化論」関連を読んでいたら面白くなった。片っ端から借りて読んだ。もうエホバとは無関係に面白い。
それまでなじみではなかった著者名、スティーヴン・ジェイ・グールドやリチャード・ドーキンス、カール・セーガンが身近になった。図書館の科学関連の棚では彼らがスターである。日本人にも優れた科学者は多いんだろうが、一般向けの啓蒙書を面白く書けるビッグネームがあまり見当たらないのが残念である。





セーガンはもとより有名人である。30年ほど前にテレビ番組「コスモス」で日本でも人気者になった。著作「コスモス」も有名である。彼は天文学者であるが、地球史も扱うので必然的に生物進化についても詳しい。私の場合彼が余技で書いたSF小説「コンタクト」で彼の魅力を知った。この小説のモチーフは実際に彼とアメリカ科学界が取り組んだ宇宙人探査計画である。
プロの天文学者であるだけに天文や科学に詳しいのは当たり前であるが、プロットもストーリーテリングもなまじなSF作家よりはるかに素晴らしい名作である。地球外生命とのファースト・コンタクトを扱ったSF作品は数あれど、こんなにリアリティのある作品はないだろう。

はるかに進んだ知的生命の存在が判明した時、宗教界がどう動揺するかも面白い。読んでみればわかるが、この作品には脇役として聖書根本主義者の宗教家が登場し、科学者の女主人公との間に葛藤がある。セーガンは神も一つのテーマとしてこの本を書いている。そこらも大変面白い。意外なことに結末ではπ(パイ、円周率)の奥に秘められた神の存在をちらつかせているのである。

もちろんセーガンはきわめて良心的な、なおかつ戦闘的な科学者で、ニセ科学、迷信、反科学的な宗教と厳しく戦った人である。彼の晩年はそんなテーマの著作が目立った。「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」「悪霊にさいなまれる世界」など。日本では迷信・ニセ科学との戦いでは立命館の安斉郁郎教授、早稲田の大槻義彦教授あたりが有名であるが、宗教勢力がアメリカほどではない日本では彼らは頑迷な創造説との対決までは迫られない。

セーガンの「コンタクト」は映画化もされた。だいたい小説を先に読んで映画を見ると失望するものであるが、この映画は悪いできではない。もちろんかなりダイジェストされている。創造説宗教者は出てくるがわけのわからん役どころでアメリカの広汎な宗教人口を商売の敵にしたくないのが透けて見える。原作でも出てくる北海道のタイムマシン基地は例によってステロタイプの東洋のイメージで日本ロケなしのオールセット撮影。面白く見れる作品ではあるが原作の代替にはならないので映画を見て読んだ気にならないように。

下:映画「コンタクト」監督:ロバート・ゼメキス、主演:ジョディ・フォスター


セーガンの「はるかな記憶―人間に刻まれた進化の歩み」(朝日文庫)は人間の由来を50億年の地球史から説き起こすもの。わかりやすくて面白い。やや読書力が必要だからすべての中高生というのは無理だろうが、すべての大学生には一般教養として読んで欲しいものである。学校で学ぶ無味乾燥な生物、天文、地学、化学がここでは意味をもつようになる。朝日文庫版では現在欠品となっているのが残念。しかし全国ほとんどの図書館にはあるだろう。



セーガンは62歳で1996年に亡くなってしまった。あと10年ほど生きて欲しかった。やや若いスティーヴン・ジェイ・グールドが61歳で亡くなったのももったいない。死んでしまうと新しい本が出ないのでつい疎遠になる。ドーキンスだけ生きているので次々と本が出て、もっぱらドーキンスばかり読むことになる。


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エホバの証人---3

  • 2011/10/18(火) 01:37:43

エホバの証人の会員は往々にして社会常識に欠けるいう話を聞く。
生活やモラルがエホバ流になってしまい、社会と隔絶するからだろう。しかし彼らの最も重要な使命は「奉仕」という名の布教活動であるから、どうしても社会と接さないわけにはいかない。かれらは毎月「何時間、布教活動に歩き回ったか」を詳しく報告する義務があり、それにもっともエネルギーを費やしている。
彼らはしばしば「ボランティアで回っています」と玄関先で挨拶する。普通ボランティアといえば何らかの社会貢献のはずだが、彼らは絶対に、ゴミ拾いとか福祉活動とか地域コミュニティの役員活動とかの社会貢献はしないので彼らの「ボランティア」は誤用である。



こういう経験がある。だいぶ前であるが、たまたま姉の家にいるときエホバの訪問を受けた。その二人組みのご婦人方が言うには「以前にお子さんにパンフレットを渡しておいたので今日はぜひそのお子さんとお話がしたい」というのである。当時6年生くらいだった私の姪のことである。彼女はこわがって出てこない。帰ってくれと言っても「あなたにではなくて、あのお嬢さんと話がしたいだけなので、合わせてください」と強引である。私は「私は保護者ですから、私の責任で合わせることはできません」というのであるが、彼女らはそれが理解できない。

これが逆だったら彼女らも理解できるだろう。私が彼女らの家に行って「エホバのインチキを教えてあげたいからあなたの子供に合わせろ」と言っても聞くわけは無い。

私の妻の学生時代の友人にも熱心なエホバがいて、我が家に来て、妻を折伏しようとしたことがあった。彼女は人に自分の信念を語り教化しようとするにはきわめて熱心であるが、私が彼女に語ろうとすると聞く耳を持たない。私が進化論について説明すると、「そんなバカな。」でおしまい。彼らは他人はエホバの主張を聞く義務があるが、自分は他人の主義主張を拝聴する義務はない、と信じている。ふだん不勉強なのにたまさか「聖書」をかじって自分が突然物知りになったような錯覚に陥り、自分の無知無教養に自覚がないのである。

エホバの証人情報センターの村木氏はなぜ人々がエホバにはまるのか、について「無教養が基本にある」と述べておられる。そう、エホバの組織は成員が高等教育を受けることを望まない。日本が先進国で教育レベルが高い、とはいっても国民全部が高い教養を身につける日なんか絶対に来ないわけだから、エホバのような人々の無教養を培地にしてはびこる宗教が消えることはない。

日本ではエホバのような聖書根本主義的な宗派はさして大きな勢力を占めていないのでエホバがわりと目だっているだけなのである。統一教会も似たようなハルマゲドン教義である。昨今ではあのインチキ募金や物売りの訪問を受けないなぁ。
本場のアメリカでは福音派の系列が大勢力となって社会的影響力も強い。これまた強烈な聖書根本主義派だからアメリカの良心的科学者はこの勢力との戦いが大変である。進化論の問題、中絶の問題は日本では想像できないくらい深刻な課題である。現在のアメリカは世界文明の中心地であるから、そこから外界に向けて、そんな新興宗教も伝播していく。ココを見るとあきれるばかりに多種多様なキリスト教系諸派が日本で活動している。セクトは先鋭化すると細分化する傾向があるようだ。

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エホバの証人--2

  • 2011/10/17(月) 02:01:49

※(前回エントリの続き)

インターネットが普及するとエホバ関連の情報があちこちのサイトで見られるようになってきた。

下:エホバは何度もハルマゲドンの到来を予言したが、ことごとくはずれ大恥をかいた。1914年もその年のひとつ。いまだに外れた予言にこだわっている。


今ではどうだかしらないが、エホバの証人---以下JW(Jehovah's Witnesses)と省略---ではインターネットは悪魔の手先だとして閲覧や書き込みを避けるよう指導していたので、内部のアクティブからの情報は少なかった。JWが最も怖れていたのはJWに批判的なサイト、背教者のサイトを一般のJWメンバーが閲覧して動揺することである。JWはメンバーが外部情報や一般の図書で知見を広め賢くなることをいやがる。

そんな中でも最も充実しているのがエホバの証人情報センターである。
残念ながら現在では管理人の事情により更新が止まっていて保管庫状態になっている。このサイトは村本氏という医師(アメリカ在住)により運営されていた。氏は夫人と娘さんがJWに入り、家庭内の葛藤のなかで彼なりにJWを研究し、このサイトを立ち上げた。たちまち全国の悩めるJWメンバーの駆け込み寺的なサイトになった。どんな相談や悪意ある投稿にも氏はいつも冷静でやさしい言葉で応じておられ、氏の人格をしのばせる。

こういってはなんだが、ひところ私はあまりの面白さに寄せられた大量の投稿を全部読んでしまった。興味深いのは二世の人たちの苦悩である。一世の人は自分で選んだ信仰であるから信仰に行き詰っても自業自得であるが、二世はそうではない。幼いころからJWとして育てられた人たちはあらゆる桎梏に楽しかるべき子供時代を奪われ、青年期には進学・就職・恋愛の都度自由な飛翔を妨げられ、トラウマに苦しむ。そんな切実な悩みが切々と訴えられる。普通の人生を送る我々からみると想像を絶する異世界である。読者の投稿欄をぜひ読んでいただきたい。

村本氏による教義の紹介もなかなか興味深い。JWの教義は奥に行くほど摩訶不思議である。たとえば天国には14万4000人という定員があるそうである。「油塗られた者」と言う人々である。すでに大昔に定員に達しているので残念ながらあなたも私も乗り遅れてしまっている。ただしエホバでは不適当な者を適宜排除するので毎年欠員補充があり、模範的なJWは加わることができるとか。しかしその欠員選考はきわめて恣意的であり実のところ「自分は神によって選ばれた!と言ったもん勝ち」らしい。日本にも多数いるという。
「ミロス」という怪しげな新興宗教も「アセンション」という名称でこの14万4000人を借用している。144というのは12の平方数である。古代イスラエルの12部族から12000人ずつ選ばれる、というヨハネの黙示録の記述から来ている。ミロスの皆さんももうすでに満員の14万4000人の中には割り込めない。
いずれにせよJWではないあなたや私は来るべきハルマゲドンでは阿鼻叫喚の中で死なねばならない。
そのほか輸血の問題、国連を「緋色の野獣」とし敵として見る問題など興味深い話題が多い。

高齢で多忙な村本氏すでにエホバの証人情報センターを実質的にやめてしまわれたが、その貴重な情報の蓄積を惜しむ人々により、リンクが維持されている。村本氏のような情熱と知的能力、事務能力に長けた方はなかなかあらたには現れるものではない。忙しい人々はあんなわけのわからん石頭の狂信者集団にかまっているヒマなない。

下:JW書籍の挿絵。これが楽園の想像図のようである。楽園には家族の笑顔と食い物が満ち溢れている。北朝鮮の絵画に共通する雰囲気がある。実際はJWの家庭には家庭不和が絶えない。JWになったからといってこの絵の生活はやはり絵に描いたモチ。


最近はネット上にJW関連の各種サイトが見られる。脱会者によるものが多い。後遺症に苦しんだり、うらみつらみを訴えたかったりするもののようだ。そんな中でごく最近、二世から脱会した青年による手記---「背信〜エホバの証人の子として生まれて」---を読んでみた。赤裸々な告白である。やはり村本氏に寄せられた二世からの相談に共通するところが多い。さして長い文章ではないので読んでみられるといい。

彼の苦悩からは子供に宗教を押し付けることの大きな弊害が見て取れる。イスラム教徒や創価学会員がなぜイスラム教徒や創価学会員になるかというと、単に親がその宗教だからである。子供は数ある宗教の中から好きなものを選択できるわけではない。思想・信条・信仰が青年期以降に自分で選択できるなら宗教の占める場所はずいぶん狭まるだろう。

彼の文章を読んでいて気になるところがあった。「JWは真の宗教なのか?」というたびたび出てくる彼の自問である。どうやら生真面目なこの青年はどこかにJWとは異なる立派な「真の宗教」があるのではないか?と思っているフシがある。私の見解ではJWはまさしく真の宗教である。これだけ人を狂信させ人生をささげさせるのであるから宗教中の宗教といっても過言ではない。葬式宗教に堕したそこらの寺や教会よりは純粋な宗教である。宗教にハマル人はよりマシな宗教を求めてあちこちと宗教をハシゴする傾向があるようだ。

我が家には全く宗教の気配がない。仏壇も神棚もない。私の子供たちは宗教気が全く無い状態で育った新しい世代である。別に問題も無く情操豊かに立派に育った。彼らはすでに社会人として精神的にも経済的にも安定し今後も宗教を必要とすることはないだろう。
そう、宗教はなければないで全く不自由しないのである。昔から「さわらぬ神にたたりなし」という。なまじ宗教にたよるから仏罰やら神罰やら信仰上の苦悩やら経済的負担を背負い込むのである。宗教で悩む人には宗教を離れたところに精神的平安があると教えてあげたい。

ここにエホバをはじめさまざまな宗教問題のリンク集がある。
http://homepage3.nifty.com/jwil-helpcult/link.htm

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エホバの証人

  • 2011/10/16(日) 01:13:02

高千穂、岩戸でエホバの証人の王国会館を見た。
こぎれいな建物で日曜のせいか駐車場は軽自動車でいっぱいだ。こんな田舎でもヒマな主婦たちがはまっているのだろう。
というか、昨今は都市部より田舎の方で勢いがあるのか?



私は「エホバの証人」にはちょっとした思い入れがある。
ある意味では恩人である。どういう恩かというと、反面教師として私を科学に目覚めさせてくれたからである。

昔々、今を去る30年以上前、東京で学生だったころ。
私はある会社でアルバイトをしていた。たまたま社長のいない日で仕事はぜずにぼんやりしていたところにエホバのおばちゃんがやってきた。ヒマな私は彼女を応接室に招じ入れ彼女の話をジックリ聞いた。

彼女の話は驚くべきものだった。
いわく、地球の歴史は五千数百年前に天地創造で始まった。
あらゆる生物は神により創造されたもので進化論は間違いである。人類はアダムとイブの子孫である。イブはアダムの肋骨から作られたので男の肋骨は一本足りない痕跡が残っている。ノアの洪水は史実である。聖書に一言もウソはない、などなど。

まぁ、聖書を読んでいなくとも常識的に知っているような聖書物語ではある。驚くべきはそのことではなく、彼女がまったく本気でそう信じ、語ることであった。
普通の高校教育くらいまで受けた人なら、そんなたわごとをマジメに受け止めるはずはないはずだが、彼女はしごく真剣にそう説いた。根ほり葉ほり突っ込んでも、けっこううまくかわす。ノアの洪水の痕跡がどこそこの地層に残っているだとか、炭素14法による年代測定のいい加減さだとか。

それから10年ほどして延岡で働いている時、職場によくエホバの皆さんが訪ねてきた。そのなかに専従者とおぼしき青年がいた。ダスキンでアルバイトをしながら布教活動をしていた。ダスキンは時間がフレキシブルなので専従者にとっては都合がよく、エホバの人が多いという。また、一般にエホバの信者は生真面目なので雇用する側にとっても悪くはないらしい。これまた私は仕事をほったらかして彼の話を詳しく聞いた。なかなか勉強家でどう突っ込んでも言い返す力があった。どうやらパターン化された反論マニュアルがあるようだ。

彼らとの議論は結局は進化論に行き着く。聖書の冒頭は天地創造であるから、信者もまずここを突破しなければならない。進化論は地動説と同様に大昔に決着のついた科学的な真理であるから、容易ではないはず。

生命の発生について彼はこんなたとえ話をした。
「ここに肉引き機があるとして、これをバラバラの部品にします。これをザルのなかに入れて千年くらいゆすり続けたとして、果たして再び肉引き機が組みあがるでしょうか?絶対に不可能です。であるならば、いくらアミノ酸などをかき集めてもはるかに複雑である動物ができるわけはないじゃないですか。」

なんで肉引き機なんだ?体重計やカメラではないんだ?おそらく彼らの英語から翻訳されたマニュアルには欧米の家庭の台所では珍しくない「肉引き機」がとりあげられているからだろう。日本の台所ではめったに見ないが。


上:「生命--それはどのようにして存在するようになったか‐‐進化かそれとも創造か」より

彼は時計のアナロジーも語った。有名なアナロジーである。
「浜辺で懐中時計を見つけたとします。これが周囲の小石や貝殻と同じように自然に生じた、と考える人はいません。だれかが作ったはずです。それでは時計より遥かに複雑な機械である虫や鳥はどうでしょう。時計と同じように誰かがデザインしたとしか考えられないじゃないですか。目の構造は実に巧妙にできています。カメラ以上に精密なものが偶然にできますか?偶然でないとしたらどこかに設計者がいるはずではないですか。」

「なるほど」と思う人も出るかもしれない。これらはダーウィンやその後の進化論の進展によって解明された解決済みの問題であるが、いきなりこんな提示をされたら、うまく反論できない人が多いかもしれない。しかし普通の人なら「だからといっていきなり神様に委ねるのはいかがなものか」と常識が働く。

論破は簡単である。「なるほど、超複雑な機械である生物が偶然の産物ではないとしたら、それを設計したさらに高度な存在である神だって偶然には出現しませんよね。では神は誰が設計したんですか??」 彼らは「神は初めからいる」という勝手のいい答を言うだろうが。
進化は偶然ではない。フィードバックによる自己修正プログラムであるから地球の生物の歴史40億年という気の遠くなるような十分な時間があれば、いかな複雑な器官だって作れるのである。

無教養な人や疑うことを知らないウブな人、さらに子供ならばこれでごまかせるかもしれない。実際、彼らはそんな人をねらい目にしているのである。高学歴の人や議論を吹っかける人は敬遠しろ、というマニュアルもあるらしい。

下:「ものみの塔」書籍から。我々の祖先はこの二人。どうやら白人のようである。この状態から我々のようなモンゴロイドや黒人がこの5000年の間に枝分かれしたらしい!?


私が彼らにいつも尋ねるのは、彼らや私の祖先である縄文人とアダムとイブのつながりはどうなっているのか?という疑問である。なにせ縄文時代は今や1万年以上昔に遡ることがわかっている。中東にあったらしいエデンの園からどういうルートでいつごろ日本に渡ってきたのか?三内丸山遺跡は5000年ほど昔のものだし、延岡にだって2000年以上遡る遺跡がある。天地創造以来5000年以内で説明がつくの?? 

あなたの耳垢は乾いていますか、湿っていますか? 上の図版の男女は白人なので耳垢は湿っている。黒人も湿っているから、元来、現生人類の耳垢は湿っているのがオリジナルのようだ。乾いた耳垢は北方モンゴロイドの特徴。日本人の多数は乾いた耳垢であるが、世界的に見ると少数派である。北方モンゴロイドは氷河期の厳しい寒さを生き抜いてきているのでそれに適したさまざまな適応をしている。最終氷期は1万年ほど前に終了しているので耳垢の乾いた人は氷河期を行きぬいた祖先の子孫である可能性が高い。逆に湿った耳垢の人は1万年まえから2500年前まで日本列島に生きた縄文人の血を引いている。まぁ、こんな例でも5000年前の天地創造からいかにしてこうなったのかを説明できなければならないはずだが。

はやい話、かれらはそんなことに全く興味は無い。聖書に出てくる古代イスラエルの神話やカタカナの名前にはやたら詳しいくせに自分の国や祖先の歴史については無知であるか無視するか無反応。つまり知的好奇心がさらさらないのである。

くだんの青年は「あなた方の驚くべき理論については、それを裏づける信頼できる資料や書籍があるのですか?」という問いに、「あります」といって数日後私に「生命--それはどのようにして存在するようになったか‐‐進化かそれとも創造か」という本をくれた。彼は自説の論証、補強のために、自論を使うというのは初歩的なルール違反であることを知らないようであった。(下)

この本は世界中でなんと1400万冊も売れたベストセラーという。売れたというより信者が無料配布用に買わされたというべきか。このうちの6冊がリチャード・ドーキンスに信者たちから届けられたという。無垢なJWの皆さんはこの本を読めばドーキンスが進化論の誤りに気付くとでも期待したのか。英米圏のJWの皆さんはドーキンスの高名は知っていても著作は読んでないようだ。

いちおう読んでみた。進化論を論駁し、創造説を敷衍する。
下:おなじみのダーウィンのフィンチも登場。キャプションにフィンチの変異はあくまで変種であって進化ではない、と書いてある。変種は種の分岐の始まりである。やがて交雑不能になり別種になる。それを進化と呼ぶのである。


リーキー、アッテンボロー、グールドなど有名な学者の言説の片言がちりばめられて進化論がいかにあてにならないかを証明しようとしている。しかしそれらを当の学者が聞いたら腹をたてるだろう。他人の言説から自分の立論に都合のいいところだけをつまみ食い的に引用しているからである。つまりこの本は読者が引用文の原典を参照することは決して無い、とたかをくくって書かれているのである。きわめて知的に不誠実。

ココにこの本の不誠実な引用について実例があげられている。

下:この本の読者が他の資料なんか参照しない、となめきった姿勢がよくわかる写真。(クリック拡大)

上の段が「生命--それは---」にある図版。「アウストラロピテクスが人間どころかチンパンジーよりも下等な動物であることを示すために頭骨を並べている。あえて真ん中にチンパンジーを置いている。この図版を見る限りはチンパンジーのほうが人間に近そうである。しかし、この図は偽造されている。下の図版の右側が実際のチンパンジーの頭骨である。エホバの図版よりずっと頭蓋が小さい。これならチンパンジーを左端に置いたほうが自然である。ケチな小細工をして薄汚い馬脚をあらわす。
まぁ、学術的には話にならないような詐術だらけなので普通は学者はこんな説や本に本気で目くじらを立てることは無い。宗教なんだから珍論奇論は当たり前だ、くらいのもの。

しかし、勇気と学問に対する誠実さを持った科学者は彼らののさばりを許しておけずに戦っている。カール・セーガンやリチャード・ドーキンスがその代表だろう。(次回に続く

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国見ヶ丘の赤松

  • 2011/10/14(金) 00:18:06

高千穂名所は高千穂峡に高千穂神社、国見ヶ丘、岩戸神社。
ところが私はこれらに何十年も行ってないような気がする。
高千穂は月に一度くらいは通過するのであるが。
娘たちも行ったことがないので大人になって自分で行ったというから、家族で来たことも無いということだろう。地元の観光地は意外とこんなもの。

というところで国見ヶ丘に行ってみた。前回は40年くらいも前のような気がする。行ってみたら全く前回の記憶が無くほとんど初めてのようなもの。

見晴らしのいいところ、のはずだが樹木に囲まれ必ずしも展望はきかない。気に入ったことは赤松の大木がたくさんあったこと。あと一月したら紅葉もきれいだろう。

下:駐車場から
国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ

下:高千穂市街を見下ろす。例によって遠望はきかない。
国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ

下:南国の住人にとって赤松はものめずらしい。
国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ


国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ

国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ

下:神様たちは東を向く。
国見ヶ丘 赤松
国見ヶ丘 赤松 posted by (C)オトジマ

下:「コクリコ坂から」に登場する赤松。


下:国見ヶ丘からの見晴らし。左端に国見大橋が見える。
国見ヶ丘
国見ヶ丘 posted by (C)オトジマ

下:国見大橋は高千穂峡の上流4kmにある。阿蘇の溶岩台地を渓流が刻む。橋の上からみると目もくらむ高さ。
国見大橋
国見大橋 posted by (C)オトジマ

下:広域農道神話アグリロードに架かる橋である。ココに詳細があるので参照。
国見大橋
国見大橋 posted by (C)オトジマ


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夕陽の里フェスタ

  • 2011/10/13(木) 00:57:46

私の愛読しているブログ、harbyさんの「バイクで駆け抜けた道と風景」で五ヶ瀬の桝形山と高千穂の大平岳が紹介されていたので行って見た。

桝形山の麓に五ヶ瀬ワイナリがある。たまたま「夕陽の里フェスタ」をやっていた。車が麓の県道にもズラリと路駐している。

下:ワイナリの下に広がる芝生に特設ステージと大勢の観客。


下:西方向が阿蘇の外輪山の裾野で開けているので展望がいい。しかしこの日は黄砂なんだか遠望がきかない。根子岳も見えない。夕日はきれいだったかも。


下:ワイナリー横にある上組小学校児童が団七踊りを踊った。団七踊りは県北各地に残っているがしみじみ見たのはこれがはじめてである。いささか単調。


ワイナリ近辺から4kmほど林道を上がると桝形山である。この桝形というのは城郭用語の桝形である。昔ここに砦があったらしい。独立峰なのですばらしい眺望のはず。

下:ここが九州山地の西の端のようである。西には阿蘇の外輪山がオボロに見える。いかんせん空気の透明度が悪すぎる。今度クリアな日に再訪するとしよう。


下:国道218号線、高千穂のレストハウス雲海橋の手前から岩戸方面にやや入ると大平岳への登山口がある。麓の県道から頂上まで4km。あまり期待せず登ったがやはりはなはだ視界が悪かった。岩戸方面を望む。


下:下に国道218号線。車で簡単に登れるので気楽に行ける。頂上には展望台があるが、周囲に立ち木が生長し全周の展望は望めない。



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岩戸の野仏

  • 2011/10/12(水) 00:33:55

下:岩戸の大師堂。田舎の大師堂はどこでもコミュニティバスの停留所。拡大すると見えるが栗がふたつ供えられていた。


下:ここの大師も着彩。顔は塗ってない。




下:上とは別の大師堂。これは千手観音。 四国八十八箇所、五十八番仙遊寺(愛媛県今治市)とある。


下:五ヶ瀬町桝形山の下でみた祠。


下:中には奇妙なものが。なんらかの神様なんだろうが私にはわからない。素人には桃の節句のお内裏様のようにも見えるが、それにしては男同士だしなぁ。木像。色合いは退色のせいかなかなかシックである。

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