門川八十八箇所

  • 2011/01/31(月) 01:11:28

門川町加草に永願寺という寺がある。
九州八十八ヶ所霊場の三十三番である。
山門からは日向灘と門川湾が見下ろせ、すぐ下を日豊線と国道10号が走っている。




この寺の下の道路沿いに十数体の石仏が並んでいる。

これも例によって町内各所の路傍から追い払われた後にここに集結したもののようだ。
これを良く見ると、新富の観音山公園の石仏と同じく四国八十八箇所の寺名とその寺の本尊が刻まれているのである。
門川町報によれば、かつて永願寺が中村にあったころ、周辺に八十八箇所めぐりが設置されたという。たぶんそのうちほとんどは失われているのではないか。ここには約10体しかないし、中村にもたいして残っていない。いずれ図書館などで資料があれば調べてみよう。

下左: 一番霊山寺 釈迦如来
下右: 二番極楽寺 阿弥陀如来(クリックで拡大)



下左: 三番 金泉寺 釈迦如来
下右: 四番 大日寺 大日如来(クリックで拡大)




より大きな地図で 永願寺 を表示

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死都日本

  • 2011/01/29(土) 09:24:46

霧島の新燃岳が噴火し火山灰による被害が広がっている。
霧島は宮崎・鹿児島県境にあるが宮崎県の人間はあれは宮崎のものだとくらいに思っている。地図をみると新燃岳の火口は鹿児島県側にあるけれども灰は宮崎県側に降る。
下:下に桜島の噴煙も小さく見える。新燃岳の噴煙はモロに宮崎市方面へ

霧島はたくさんある火山の総称であり、霧島山という山頂はない。ドライブウェイが山上を走り、高千穂の峰から韓国岳に至る火口をめぐる縦走路は登山客に人気がある。桜島は年中噴煙を上げているので明らかに活火山であるが、宮崎県民でも霧島は死火山か休火山くらいに思っていた人も多い。

今回爆発した新燃岳火口は映画「007は2度死ぬ」(1967年)で悪役のスペクターの秘密基地として登場する。火口がスペクターのロケット打ち上げ基地なのである。
これを子供のころ見た。海女に扮した浜美枝とショーン・コネリーがこの山を登る姿を覚えている。さっき海から歩いて出発したのにその直後海女の衣装のままで霧島の山頂にいるというのはムチャな設定だ、と子供心に不審に思ったものだ。舞台となっている海岸、薩摩半島南端の坊津あたりからだと今でも車で3時間はかかるのでないか。高速のないあのころだと一日かかったはず。そもそもが荒唐無稽なお話だからそんな些末事が気になるのは地元の人間だけか。
ともかく日本が舞台、トヨタ2000GTの雄姿、国宝姫路城の白壁を手裏剣で破損、日本人ボンドガール浜美枝、わが故郷宮崎県での撮影など話題も思い出も多かった映画。あれからいつしか半世紀も経過したとは。齢をとるはずだ。

下:カルデラの外輪山から見下ろす加久藤カルデラ。正面が霧島連山。霧島はカルデラ中央にあるわけではない。姶良カルデラの桜島のようにカルデラのはずれにある。中央の道路は九州自動車道。(写真はウィキペディアより転載)



今回の爆発ですぐに想起したのは小説「死都日本」である。この小説を読んだことのある人は誰しもそうだろう。8年前に読んだが印象は強烈だった。宮崎県ではご当地小説みたいな紹介もされた。著者の石黒耀(もちろんペンネーム)は宮崎大学医学部出身の医師で宮崎には土地感があり詳しい。

「死都日本」は霧島が永い眠りから目覚めて噴火し、それに引き続き霧島火山群の母体というべき加久藤カルデラが破局的大噴火する、という設定のいわばクライシスノベルである。かつての大ベストセラー、小松左京の「日本沈没」のスケールダウン版というところ。しかし、こちらのほうが断然リアリティがある。520ページもある大部な本だが前置きは短く、いきなり大災害が始まる。主人公をめぐるストーリーはオマケみたいなもんで、ポンペイの悲劇もかくや、というような大規模火砕流の描写が迫真的。まず都城盆地周辺が、引き続き鹿児島県も火砕流に飲み込まれる。200万あまりの人間は瞬時に火あぶりで即死する。描写は今見てきたかのようにやけにリアルである。こんな規模の噴火になると被害は局地的にはおさまらず、地球規模のものになる。

著者は医師でありながら火山オタクらしく、かなり専門的な地学的トリビアが随所にあり知的好奇心を満足させる。
九州南部に詳しくない人はぜひ地図を傍らに読めばさらに面白く読めるはずである。
ただしそれはこの小説があくまでありえないフィクションとして読めば面白い、ということで、今回の爆発がさらに発展してノンフィクションになってしまってはシャレにならない。江戸時代以降の例のようにすぐに収束するのを祈るのみである。

下:霧島近辺と大規模カルデラ群。これを見ると南九州は巨大火山の巣であることがわかる。ほぼ全域が姶良カルデラの火砕流が堆積したシラス台地となっている。

この本を読んで霧島というのは実は危険な火山だということを知り、こわくなったものだ。長年宮崎県民をしているが、えびの市がカルデラの火口原だなんてことも知らなかった。
私の住まいは県北なので霧島から直線で100kmくらい離れているが大規模火砕流はそんな距離はものともしない。時速100kmでたちまち飲み込む。どうやってどこに避難すればいいか、とマジでシュミレーションしたくらいだ。ただしこの小説が描くような規模の噴火では西日本全域が壊滅するくらいの規模だから宮崎県民は避難のしようがないのであるが。

南九州のカルデラ群のうち一番最近の破滅的噴火は7300年前の鬼界カルデラの噴火でこれが九州の縄文文化を断絶させたという。縄文時代の日本(という国はなかったが)の人口は10万人内外らしいからこの時の死人はおそらく1万人未満くらいですんだだろうが、そんなことがもし現在起こったらすさまじい被害だ。1991年のピナツボ山くらいの噴火の規模でも日本だったら被害はフィリピンの比ではないだろう。

この本は出版からもう8年経過しているが、今が読み時かもしれない。これは2010年前後を想定した近未来小説として描かれている。8年前に書いたにしては8年後の現在と符合するところがある。たとえば大災害に対処する時の政権は長年政権を保ってきた保守党から政権交代したばかりの新しい政権で、首相が「原」という名前なのである!原首相は日本の危機に果敢に対処するのである。石黒氏も驚いているかもしれない。

火山学的に見ても学者たちも感心するくらいよく書けているらしい。学者が集結してこの小説を議題にしたシンポジウムもある。宮崎県民にとってはとりわけ、火山列島に暮らすすべての日本人にとっても災害シュミレーション小説として読んで損はない。

コチラに「死都日本」の舞台となる霧島火山や南九州をドラマの筋に沿ってを詳しくたどるサイトがある。なかなか視覚的かつ学術的でもある。
コチラには南九州の巨大噴火と火砕流を解説しているサイトがある。

下:昨年の秋、新燃岳の麓をドライブしたときの動画。今は
火口から3km以内なので通行禁止。おそらくあたり一面灰神楽だろう。今年のミヤマキリシマは見れないかもね。紅葉シーズンまでには収束してほしいところ。





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新しい庚申塔

  • 2011/01/28(金) 00:32:20

庚申塔はおおむね江戸時代にさかのぼる物が多いが、近所で新品の庚申塔を見かけた。
下:新品とはいえ平成二年。20年は経過しているが、江戸時代の庚申塔を見慣れた目には新品同様。(クリックで拡大)


なかなかいい面構えの青面金剛である。手の造形にやや難があるといえばあるが。足元に邪鬼を踏みつけているのも定型。
これには珍しく石工の名前も彫ってある。地元の石材店である。御影石でもなく中国製の量産品でないところがうれしい。石は安山岩のようだ。

下:この青面金剛のすぐ後ろには下半身だけの青面金剛が置いてある。そうとう古そうだ。壊された物を見るにしのびず新しく作ったのかもしれない。



門川町加草にて

より大きな地図で 平成 青面金剛 を表示

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曽木の道祖神

  • 2011/01/27(木) 01:36:50

北方町は現在延岡市に吸収合併されているので、もう東臼杵郡ではない。中心的な集落は曽木である。曽木のはずれに道祖神の吹き溜まりがある。

下:中央は青面金剛、その左右は猿田彦。右の小屋は地蔵堂。右の猿田彦は明治二十五年と年銘があるから明治中期にはまだ猿田彦は人々の心の中に生きていたんだろう。
ここは辻ではなくほとんど袋小路のまったくの村はずれであるからあちこちからここに集められたものである。シキミが生けてあるもののあまり人の参った形跡は見られなかった。


下:青面金剛の年銘は天明四年の甲辰(1784年)。古い割には状態がいい。

下:地蔵堂の中には文化三年丙寅(1806年)の年銘の地蔵、というより四国遍禮供養とあるから大師か。

下:曽木の国道218号線脇にも庚申塔が。これらも道路改良でここに移されたようだ。ここも近隣に人家もなく絶えて参る人もないようだ。

下:右は天保十五年、左は文政十一年。

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小野町の道祖神

  • 2011/01/26(水) 01:57:37

昔からの農村集落には道祖神や地蔵が良く残っている。
延岡市西部の小野(この)地区にもいくつもある。

下:辻にはいくつもの石塔が並ぶ。
左から2番目は猿田彦大神


下:右から3番目の地蔵のレリーフ

下:この辻の奥の祠にも地蔵のレリーフ。
左の碑の年銘は安永元年、1772年。杉田玄白らが「解体新書」を著したころ。240年前。何の碑なのか?


下:別の辻の地蔵と青面金剛。地蔵は首を折られた形跡。右の石碑には「沖田用水路開鑿碑 昭和8年」とある。

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庚申さんの吹き溜まり

  • 2011/01/25(火) 01:42:20

延岡市の西部、五ヶ瀬川沿いに中三輪地区がある。小さい集落のはずれの山のふもとに庚申さんがずらりと並んでいる。
下:あの竹林の下に小さく見える。(クリックで拡大)


下:近づいてみると。

下:そうとう苔むしている。人の通っている形跡が見られない。

下:すべて青面金剛である。

下:地衣類がはびこっている。手入れもされていないしお供えの水も花もない。

下:年銘を見ると、文政四年。1821年。およそ200年前。
文化・文政時代の文化を化政文化という。浮世絵の全盛時代である。江戸文化の爛熟期。我々の持つ江戸時代のイメージはおおむねこの頃。


これらの青面金剛も道路改修にともないあちこちの辻から追い払われてここに集結したものと思われる。
私もいい年だが戦後生まれともなるとさすがに庚申様を祭るといった習慣も記憶もない。地蔵や大師より庚申さんの方がずっと先に忘れられていくようだ。一度失われた慣習は二度と旧に復することはないだろう。
明治新政府は庚申信仰を迷信として排斥しようとしたらしいが、地蔵と違い青面金剛はほとんど首がつながっている。厚い石の板にレリーフとして刻まれているので叩き壊しにくかったのか。

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醜悪な風景--大木の看板

  • 2011/01/24(月) 01:16:23

貸金の看板は所かまわずである。田舎では他の看板が少ない分よけいに目立つ。農村部にはあんな高利の怪しい貸金にすがる人がおおいんだろうか。
下:空家は貸金看板に狙われる。業者の怪しさ倍増。


下:廃屋も狙われる。誰も苦情を言わないからである。


宮崎県では見かけないが、九州北部で貸金看板なみに良く見かけるのが「大木切ります」の看板である。非常な頻度で見かけるのでこの商売は結構うまみのある商売なんだろう。
下:国東半島、富貴寺そばで見かけた「大木」看板。


私はこの看板を見るとムカつくのである。
大木は集落や町並みに貫禄をつける最大のポイントである。
新興住宅地や成金の家には大木はない。大木があるということはそこの古い歴史を物語る。古い集落では大木は注連縄をつけられて大切にされていることも多い。
それが近年安全性や落ち葉の苦情などでアッサリ伐られることが増えている。さらには銘木業者の餌食になることも少なくないだろう。カネの力は強い。
大木は地域の宝である。少々の落ち葉やケムシや安全性に勝る宝である、という共通認識が広くなされることを祈るのみである。安易にこの看板の電話番号に電話するべきではない。


下:東京都杉並区の住宅街。東京の太っ腹な地主にはケヤキの大木を大事にしている人もある。落ち葉の苦情は多いだろうがそんなものを気にしていたら景観は守れない。



ちなみにこの業者はおおつかガーデン。ホームページを見ると実際の伐採例や料金がある。結構費用がかかるんだね。

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醜悪な風景--貸金の看板

  • 2011/01/23(日) 01:24:00

田舎道の民家の壁で必ず見かけるのが貸金の看板。
たぶん山間部では看板の枚数は戸数より多い。

どんな山奥の袋小路でも見かける。
下:三郷町の地域の数戸以外誰も通らない山間部で  ニッシン信販


下:日向市美々津で 太平洋信販と米日信販は看板の設置やデザインからして同一資本のようだ。両方から借りるという多重債務者をお得意にしているようだ。宮崎のローカル貸金。



しかし、どこでもかしこでも張ってあるのが「マルフク」の赤い看板だ。これは全国規模の会社だったので全国津々浦々の民家の壁にある。もしそれぞれに家主の許可を得て礼金を払っているとしたら莫大な金額だ。ところがマルフクをはじめとした貸金の看板は古い民家、なかでも倉庫や納屋、空家、廃屋によくある。ほぼこれは無断で張っていると推察できる。

昔のホーロー看板も必ずしも美観に資するものではなかった。昔の我が家は国道のカーブにあっておあつらえ向きの板壁があったので壁じゅうに各種ホーロー看板が設置されていた。例のカクイワタとかキンチョウとかである。今思えば景観を害する類であった。しかし当時の業者は家主に丁重な断りを得てわずかながらでも謝礼を置いていったのでその看板たちに愛着があったものだ。
下:これは我が家ではないがほぼこのようなもの。


マルフクはとうの昔につぶれている。しかし全国に撒き散らした赤白の安っぽいトタン看板は日本の田舎ののどかな景観を醜く彩り続けるのである。
どうか壁の所有者の皆さん、マルフクの看板は遠慮なくどんどん引っぺがして下さい。景観に関心がなく、事なかれ主義の行政に任せていると日本の景観を取り戻すのは百年河清を待つがごとし。

上:大分県安心院で。古い農家の立派な納屋の壁にもマルフク。これも空家でマルフクの餌食になったものと思われる。

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山頂の廃墟

  • 2011/01/22(土) 01:46:53

都農町の西部、宮崎平野の端っこ、九州山地のとば口に荒崎山がある。なだらかな山で山頂まで果樹園や農場、牧場として利用されている。去年の口蹄疫騒ぎで最初に症例が出た水牛牧場もこの近辺にある。山の上からは宮崎平野や日向灘まで見渡せ景色が良い。
下:荒崎山中腹から都農町を見下ろす



荒崎山の山頂は牧場になっている。そのかたわらに「フィールドストーンファーム」がある。いや、あったというべきか。
ここに行ったのは4年前で、その時もうすでに廃墟になっていた。そのころは麓から「フィールドストーンファーム」への案内看板が要所要所に設置されていた。

何の予備知識もなしに通りがかったので山中にふいに現れたこの不思議空間にシークレットガーデンに迷い込んだかのような印象を受けた。農場のようだが表示や看板がすべて英語で、アメリカンカントリー風な建物やガーデン。全く人気がなくうららかな陽の光のなかに静まり返っていた。



誰に訴えているのか不明の教訓が書かれた英語の看板を見ると何らかの宗教施設かとも思えた。

上:"Yesterday is but today's memory, and tomorrow is today's dream." 「昨日は今日の思い出であり、明日は今日の夢」 ハリールジブラーンの言葉


上:A loving person lives in a loving world. 「愛にあふれた人は、愛にあふれた世界に住む。」ケン・ケイエス・ジュニアの言葉

後にネットで調べると宮崎市の健康食品関連の会社の運営する農場らしかったが、すでにネット上にその痕跡はないようだ。ここがまだ活動中だったころにここを視察された方の報告があるが、簡単なレポートである。
この人の訪問が9年前で、そのころ建設中とあるからごく短期間しか生きてなかったようだ。そして建設途中で放棄された訳だ。レポートにもあるようにもし完成したとしても収益を得るような意図はなかったようだから永続性はそもそも危うかっただろう。奥様のカントリー趣味をきわめて大掛かりに実現したものの、金が続かなかった、というところか。
もし観光ルートに近いところに作ればそこそこお客さんが来たようにも思えるが。


上:"It is astonishing how short a time it takes for very woderful things to happen." 「とても素敵なことが起こるにはわずかな時間しかかからない、ということは驚くべきことだ」フランシス・ホジソン・バーネットの言葉。彼女は「秘密の花園」の作者だからこの場所にふわわしいかもしれない。




これは4年前の写真であるから、今はもっと荒れ果てているだろう。去年再度行ってみたが鎖が張られ立ち入り禁止になっていたので中の様子はわからない。


この農場を作られた方、小林一年氏の本「金をかけない街づくり―夢みて挑む」というのがある。当然挫折以前に書かれたものである。興味ある方はアマゾンで古本があるようだ。ネットでちょっと調べたらえらく面白いそうだ。

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富田八幡神社

  • 2011/01/21(金) 00:18:28

観音山から程遠からぬ所に富田八幡神社がある。
どうということない普通の神社だが。


その由緒沿革によれば、平安時代保元年間に鎮西八郎源為朝がこの地に駐屯、観音山に城砦を築きこの神社を厚く崇敬したとある。源為朝は滝沢馬琴の「椿説弓張月」の主人公であり、身の丈2mを越え怪力で弓の名手という伝説的な武将。鎮西というくらいだから九州で活躍したのは確かだろうが、かのスーパースターがこんなところまで来ていたんだろうか。今でも田舎だが当時は京都から見るととんでもない辺境だったはずだ。看板によればかつては為朝の奉納した甲冑が当社に保存されていたと書いてあるが。なにせ900年も前のことだからなぁ。
源為朝と観音山にはこんな伝承もあるようだ。



狛犬はごく普通のものであるが、奉納者が面白い。戦前ならではの理由である。「満州独立守備隊満期記念 昭和11年」とある。寒い満州で満鉄の警備、満期で無事除隊というのは嬉しいことだったのだろう。すでに満州事変(昭和6年)を経て戦争状態が継続し、その後のノモンハン(昭和14年)では戦死者多数、もし終戦まで勤めればシベリア送りかもしれなかった。


新富町も昨年の口蹄疫の被害を受けた地域である。
それと関係あるのか知らないが牛の絵馬が。ここいらにいる牛は乳牛ではなく黒毛和牛のはずだが。

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